2020年01月05日

奈良当麻寺をめぐるたび

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2012年02月13日

北京故宮博物院200選を観る

 LIST_3206.jpg北京故宮博物院200選は、日中国交正常化40周年、東京国立博物館140周年記念として、この度開催された特別展である。200点の約半数が一級文物(日本の国宝に該当か)に指定されており、よくぞこれだけの名品を選りすぐって出品したものだと感じ、折衝に当たられた日中の当事者に厚くお礼申し上げたい。今回は宋・元時代の書画をはじめ膨大な収蔵品の全体を示す、高水準な粒よりの作品が揃っている。
 私は、1月中に2回見たけれども、200点は多すぎる。150点位が一番見易い点数である。今回は特別展であって、展示規模も大きいが、観客も多かった。初回は10時位に着いたが、既に入館するまでに1時間の列ができ、「清明上河図」は、更に3時間待ちであった。
uid000071_201112151503480c26fd61.jpg 第1部は「故宮博物院の至宝ー皇帝たちの名品」で、北宋、南宋、元時代の絵画、書であった。
 中でも「清明上河図」は、新聞テレビの報道のために、大変な人気であった。この図は清明上河図の橋の
部分であり、しばしば目にする絵画である。北宋の都、開封(かいほう)の庶民の日常を描いた図である。
 中国史上における宋時代は科挙による士太夫官僚が高い文化を生み出し、一方で庶民が豊かな都市生活を謳歌した時代でもあった。北宋後期の都市の様子を見事に描き出した絵画史上の傑作である。
 しかし、私見として圧倒的に面白かったのは第2部の「新潮宮廷文化の精粋ー多文化のなかの共生ー」であった。清朝は、ご承知の通り、満州族の王朝で、僅か2%の人口で当時世界の人口の三分の一に当たる大清国を異民族が支配し、中でも乾隆帝(1711〜1799年)の清朝第六代の皇帝で、大清帝国をが安定して上昇期に入り、最も幸運な時期に即位した皇帝であった。
uid000071_2011112116014997c1d9b6.jpg左の絵画は「乾隆帝是一是二図軸」(これいちこれに)と呼ばれる絵画である。
 満州族の皇帝が、漢民族の衣装を着け、テーブルの上には古代の緑青をふいた青銅器や玉器、宋時代の白磁、明時代の青花と言った歴代王朝の遺物が並んでいる。清帝国の支配者が、漢民族の文化を愛し、衣装を着けているところに、大帝国を武力でも文化面でも、精神面でも愛し、共生する有様を示した絵である。
uid000071_2011112116005384e21066.jpg文句なく当時の世界一の文化国、武力帝国、文化帝国、技術国であった大清国の帝王の姿を遺憾なく発揮した一枚の絵である。即ち、清朝は世界一の先進国であり、アジアの指導者であった。その清朝の治める版図は、概ね現在の中華人民共和国が支配する版図であった。
しかも、乾隆帝は、力づくで支配するのでは無く、チベット仏教を崇拝し、「乾隆帝文殊菩薩画像」として描かれている。
 その乾隆帝の治世が1711年から1799年の時期であったことと大きく関係している。
 即ち、18世紀はアジアの時代であり、ヨーロッパの時代ではなかったのだ。


イギリスの産業革命の歴史は次の通りである。
 1733年   フライ シャトル     ジョン ケイ
 1735年   ローラー防績機      ワイアット
 1735年   コークス精錬法      アブラハム ダービー 
 1765年   蒸気機関(分離凝結機)  ワット
 1776年   「国富論」        アダム スミス 
         (マニファクチャー時代の資本主義)
 要するに、産業革命がヨーロッパに起こり、イギリスが世界の工場として誇った時代は19世紀である。
 18世紀はアジアの時代であり、その盟主は文句なく、大清国であったのである。
 最も感銘を受けたのは、「康熙帝南巡図管第十一巻」と「第十二巻」である。雄大な万里の長江で、川水
の激しく流れるなかを、康熙帝の乗る龍船は流れに沿って下って行く。平安な中国の皇帝の姿は、現在の中華民国の指導者には見られない、穏やかで、豊かな姿である。
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2011年12月29日

会津八一の詩と共に大和古寺を歩く

なぜ大和(奈良)か

 私たちは昭和二十七年(1952)四月に、名古屋大学経済学部に入学した。思えば日本がサンフランシスコ講和条約を調印、日米安保条約を締結したのが、その前年の昭和二十六年(1951)であり、翌二十七年(1952)は日本の講和独立と国際社会復帰への道が開けた年であった。しかし、講和は全面講和ではなく、米英等親アメリカの国々(四八国)との講和であり、その後中国との講和を結ぶために二十年近い歳月を要し、未だにソビエット(現ロシア)、北朝鮮とは講和条約を結んでいない。
 また、日米安保条約は、その改定の都度大きな政治問題となり、特に昭和三十五年(1960)の安保改定に際しては、国会へ学生や労働者が請願デモで押しかけ、まるで革命前夜を思わせるような光景であった。
 一昨年(2009)八月民主党が政権を取り、そのマニフェストの柱の一つは「緊密で対等な日米関係をつくること、日米地位協定の改定を提起する」であった。将に、六十年を掛けても、日米安保条約は最大の政治課題であり、激動の時代に入学したものである。
 昭和二十年(1945)八月のアメリカ占領軍による統治の時代から、日本は圧倒的な物量の前に”アメリカ漬け”になったのは止むを得ない事態であったろう。しかし、アメリカ文化がすべてという時代風潮に対して私には反発の気持ちも強かった。
 あえて、昭和二十七年(1952)から大和の地を訪ね、そこに華開いた古代の日本文化を吸収しようとした私の中には、言ってみれば日本的教養主義への憧れとの言うべき気持ちが強かったのではないかと思う。
 爾来、六十年近い歳月が経つが、未だに”大和は国のまほろば”という思いが強く、今でも機会があれば奈良・京都の寺を訪ねたり、古寺の展覧会が開催されれば、必ず拝観に行く昨今である。
 大学時代の大和への旅に同行したのは、高校時代の同級生であったK君(名大法学部)であった。青春の大切な時代にK君と二人で奈良のお寺を廻った思い出は大変貴重な思い出である。
なお、大和古寺を散策するにあたり、手元にあった図書は和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、竹山道雄「古寺遍歴ー奈良」、會津八一「鹿銘集」、日本書記であり、適宜引用する。
(この文章は、「幾山河」・名古屋大学経済学部1956年卒業生・喜寿記念文集を大幅に改定・補充したものです)
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飛鳥地方・飛鳥寺


 昭和二十七年の五月,K君と二人で飛鳥地方を尋ねた記憶は新鮮である。名古屋発の近鉄急行に乗り、中川駅乗り換え、大和八木駅乗換え、橿原神宮前駅下車、そこからは徒歩であった。今ならばバスがあるだろうが、当時はバスの数も少なく、まだ見ぬ飛鳥地方を早く見たいという気持ちで一杯であった。
 駅前から橘寺、岡寺、不思議な猿石、亀石、酒船石、鬼の雪隠と歩いて、石舞台で持参の弁当を食べた。
K君が持参したカメラで昼飯を食べている写真が今も残っている。石舞台は蘇我馬子の墓と伝えられているが、当時は区画もなく、入場料も不要であった。
 その後、順序は覚えていないが、河原寺、弘福寺、安居院(飛鳥寺)と廻った。
 
 よ を そしる まづしき そう の まもりこ こし
   この くさむら の しろき いしずえ (会津八一「鹿銘集」)

 220px-Asuka_dera_daibutsu.jpg飛鳥寺は日本最古の寺であり、蘇我氏の氏寺として建てられた。最初は法興寺と呼ばれ、日本書記には創建の事情が詳しく残っている。崇峻元年(587)の整地から推古十四年(606)の金銅丈六仏安置まで十八年かかっている。本尊の飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は我国最古の仏像であり、止利仏師の作である。法隆寺の釈迦三尊より十七年、東大寺の大仏より百五十年も早く造られた金銅仏である。何度も火災にあい、修復されており、残っているのは顔の一部、右手の指の一部という説明を受けた。しかし、間違いなく古代微笑(アルカイックスマイル)を浮かべたお顔であり、神秘的であり、威厳に満ちており、森厳と評すべきかも知れない。飛鳥地方を代表する仏像だ。
 飛鳥・飛鳥寺はその時が最初であるが、その後何回も訪れ、飛鳥寺にはお参りをしているが、最初の拝観が一番印象に残っている。
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法隆寺・中宮寺

horyuji_0037.jpg 昭和二十七年十月にK君と連れ立って、法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺を歩いたのも思い出深い。法隆寺はその当時も、今も謎の多い寺である。例えば、南大門をくぐって、中門に向かうと、中門の真中に柱が立っている。竹山道雄は「古都遍歴ー奈良」の冒頭で「行手の門は、なかば人を通すようでもあり、通さぬようでもある。門でありながら塞いでいる。招じ入れる入口でありながら拒否している。この柱がふしぎだった」と記している。
 用明天皇元年(598)、天皇は造寺と薬師像建立を発願したと金銅薬師如来像の光背銘に記されている。また、日本書紀によれば推古九年(601)厩戸尾大兄尾皇子は、斑鳩宮に移されている。推古十五年
(607)法隆寺建立とされている(薬師寺光背銘)。即ち七世紀初頭には、法隆寺は完成したと思われていた。しかし、天智九年(670)、日本書記は「法隆寺に災あり。一屋余すなし」と伝えている。明治以来、法隆寺の再建・非再建論争が続いたが、昭和十四年(1939)から石田茂作らによる若草伽藍跡発掘調査によって再建論が確定した。従って、現在の法隆寺は再建された斑鳩宮であり、再建後の法隆寺の面影を残すのは金堂、五重塔、回廊と見られている。法隆寺再建の時期については日本書記は語っていないが、専門家の間では八世紀初頭には、飛鳥時代の建築様式を取り入れて金堂や五重塔が再建されたと見られている。しかし、世界最古の木造建築物であり、世界遺産第一号であることに変わりはない。
 kondo.jpg金堂内に配置されている止利仏師作の釈迦三尊(国宝)は飛鳥仏の基準作と考えられている。右に薬師如来像(国宝)、左に阿弥陀如来像(重文)、そして四隅には四天王像(国宝)が立ち並んでいる。荘厳な仏世界である。金堂には優れた壁画があったが、昭和二十四年(1949)一月に火災にあい、完全に復元模写されている。特に六号壁画部分の阿弥陀浄土図はインドのアジャンターの壁画と並ぶ優作であったそうである。
 飛鳥時代の代表作は金堂の釈迦三尊であり、所謂北魏様式である。この系列につながる仏像は、金堂の薬師如来、夢殿の救世観音菩薩像等を竹山道雄は揚げる。これとやや系列を異にする様式として、百済観音像を代表作として金堂四天王、中宮寺弥勒菩薩像などを揚げる。(但し、百済観音は朝鮮渡来とする説がある)
 いずれにせよ飛鳥仏はアルカイックスマイルを浮かべ、森厳な相をしており、時代の古さを感ずることができる。

  おしひらく おもき とびら の あひだより はや みえ
   たまう みほとけ の かほ (会津八一「鹿銘集」)

 p02.jpg日本美術史の上では推古の時代(600年ごろ)から大化改新(645年)までを飛鳥時代、それ以降奈良遷都までを白鳳時代、奈良遷都から平安京遷都(794年)までを天平時代と呼ぶ。勿論、仏像がすべて時代によって区画されるものではないが、時代の持つ空気のようなものを反映していることは概ね認識できる。 
 法隆寺の隣に、中宮寺がある。中宮寺は創建の年代は不明であるが、聖徳太子建立の七寺の中に数えられる由緒あるお寺である。太子の母親である穴穂部間人皇后のすまいを、皇后の死後に寺にした。皇后、皇太后を中宮というので中宮寺と呼ばれている。
 戦後間もない時期の建物は江戸時代の建築であるが、尼寺らしく清楚な風格を持つ。門をくぐると松と青砂のさわやかな庭があり、庭先から本堂へあがる。正面に安置されているのが有名な本尊の釈迦如来三尊の作風とはちがい、おだやかな人間らしい仏像である。白鳳仏に近く、製作の年代も白鳳期に入ってからとする説もあるが、寺伝に従い飛鳥仏の入れたい。お寺では如意輪観音とするが弥勒とする説もある。飛鳥、白鳳を通して一番美しい仏像である。半跏像とは、右足を左足の上に組む仏像であり、特に京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と双璧をなすが、私は中宮寺を一番にあげたい。色が黒く光るのは、木造仏に黒漆を塗ったためである。
 和辻哲郎は「古寺巡礼」の中で「私の乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のない独特のものではないかと思われる」と絶賛している。

  みほとけ の あご と ひじと に あまでら の
   あさ の ひかり の ともしき ろ かも (会津八一「鹿銘集」)

 中宮寺で見逃せないのは天寿国曼荼羅刺繍張である。昭和二十年代には、国宝の実物が展示されていた。
(現在は痛みが激しいためレプリカが展示)上宮聖徳法王帝説(刺繍の銘文が記録されている)によれば、
太子がなくなったのち、后の橘大女郎が太子の死をいたみ、死後の太子が往生したはずの天寿国の図を作って太子をしのんだとされている。それ程に太子の信仰生活がなみなみならぬものであったことがわかる。
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2011年12月28日

東 大 寺


昭和二十八年三月十二日にK君と奈良に泊まり、東大寺を巡ったのも思い出深い旅であった。その頃、旅館に泊まるのは容易ではなかった。戦後の食糧不足は終わりつつあったが、東大寺近くの吉田家という旅館は多くの古寺巡礼を楽しむ学生や先生のための旅館であった。当時の宿泊料は米二合持参、二食付で五百円であった。古い旅館であり、今はない。奈良ホテルに泊まる身分ではなし、吉田家が一番適当な旅館であった。因みに、「古寺巡礼」の和辻哲郎は奈良ホテルが常宿であったようだ。
 二月堂、三月堂、戒壇院と廻った。日にちまで明確に覚えているのは、その旅が二月堂のお水取りを見る目的であったからである。
 まず、三月堂にお参りした。三月堂の本堂は創建当時のものである。因みに、東大寺の建物の中で創建時のまま残っているのは、この三月堂、転害門、正倉院の校倉のみである。
 さて、東大寺は平城京の東の端(外京)に方八町を占め、天平十五年(743)の大仏造顕の詔で創建され、その規模は他に匹敵するものがない。聖武天皇の詔で創建された事情からも、鎮護国家の寺であった。
 大仏殿の東に建つ三月堂の仏像は天平仏の中でも特に美しい仏像が多い。三月堂は天平十九年(747)から天平二十年(748)にかけて建立された堂で、不空絹牽檡観音を本尊とする。この堂は法華堂とも呼ばれ、法華会が三月に行われるので、三月堂の名称で親しまれている。この堂内には十四体の天平仏が立っている。この仏像群を大きく二つに区分できる。一つは、不空絹索観音をはじめ、梵天、帝釈天、四天王、仁王の像で、いずれも脱乾漆造で、高さは350センチを超す巨像であり、本来この堂と共に制作された仏像である。もう一つは日光、月光、吉祥天、弁財天、執金剛神の五体であり、本来は東大寺内の他の堂に伝来したが、いつの時代にか、三月堂に移し替えられた客仏である。
いずれの仏像も天平仏の代表作であるが、中でも日光・月光菩薩が美しい。亀井勝一郎は「この両菩薩の合掌の美しさもまた無比であろう。それは、指先をふれるだけで、実に柔かく、ふくらみを帯びて合掌している。」と賛美している。
 次に大仏殿の西に建つ戒壇院を訪ねた。戒壇院は二度の兵火により炎上を繰り返したが、現在の建物は江戸中期の建物である。内部の戒壇院の四隅には天平の四天王が祀られている。中でも広目天が美しい。亀井勝一郎も「四天王の美は、戒壇院を頂点とする」と述べている。

 びるばくしゃ  まゆね よせたる まなざし を まなこ に
  み つつ あき の の を ゆく(会津八一「鹿鳴集」)

 todaiji_0017.jpg東大寺二月堂のお水取りは、毎年テレビでも放映され、新聞記事ともなり、春先の季節行事としても名高い。お水取りというのは、三月一日から十四日にかけて行われる修二会の一部である。必ずしも東大寺にかぎるわけではなく、各地の神舎仏閣で行われたが、今では東大寺を現す行事である。二月堂の名称も集二会に由来する。
 230px-Todaiji_Syunie_Nara_JPN_001.jpg二週間にわたる行法の中で、三月十二日の真夜中に行うのが「お水取り」で二月堂の前にある若狭井から、聖なる水を汲んで本尊にささげるのである。その時は、特別大きな松明を炊き、美々しい行列がお堂を出て、井戸から水を汲み上げる儀式がある。この儀式があまりにも見事であるために、お水取りだけが有名になった。「走りの行法」が行われる。それは松明を持っておそろしい勢いで堂内を駆けめぐる行事である。あまりにも松明を力いっぱいに振り回すため、炎が大きくなり、火の粉が燦爛と輝きながら見物者の頭上に降りかかってくる。見事な火の行事であり、人の穢れを祓う行事であったのであろう。当日は春先の寒い夜であった。
 三月十二日のお水取りの夜に、「過去帳」が読まれることも忘れてはならない。聖武天皇、光明皇后から現代に至るまでの東大寺に関係のあった人々の名前を、歌うように読み上げるのである。鎌倉時代中程で
「青衣の女人」と、陰にこもった節をつけて読む。後に井上靖が「青衣の女人」を著している。翌三月十三日には東大寺の大仏殿を参拝して、待望の西の京に向かった。

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薬 師 寺

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 近鉄西の京駅を下車すれば、薬師寺は眼の前である。薬師寺で創建当時の建築物は東塔のみである。元来、西塔と二棟様式であったが、西塔は早く消失した。
 薬師寺の縁起によれば、天武九(680)年に、その皇后、後の持統天皇の病気平癒の祈願のため、飛鳥の地において造寺の発願をされたことによる。実際に工事がはじめられたのは、天武天皇が崩ぜられ、持統天皇が即位された後であり、文武二年(698)に飛鳥藤原京で落成した。しかし、わずか十二年後に都は平城京に遷都し、その薬師寺を養老二年(718)飛鳥藤原京より現在の地に移転され、天平二年(730)に東塔が建立されたと伝えている。



  すいえん の あまつ おとめ が ころも で の
   ひま に も すめる あき の そら かな (会津八一「鹿鳴集」)

 photo_hotoke_kondo.jpg昭和二十年代には、この寺伝はそのまま受け継がれ、薬師寺の仏像は白鳳仏と考えられていた。
 西の京から徒歩で入ると、お寺の裏口から入ることになり、まず講堂を眼にする。しかし、本来は南側に建つ南門から入り、東西二塔を拝して金堂に入るのが元来のお寺の参り方である。大和で二塔を擁するお寺
(二塔一金堂)は薬師寺が創まりである。飛鳥寺は、五重塔、三金堂(一塔三金堂)様式であった。法隆寺は中門を入ると右側に金堂、左側に五重塔を擁する一塔一金堂様式であった。
 要するにお寺における塔の位置付けが大きく変化したのである。塔というものは、基本的にはストューパ
である。ストューパとは仏舎利(釈迦の遺骨)を収めた舎利塔である。インドでは仏像が無い時代はまずストューパが造られ礼拝された。その後、金堂(本尊を祀る)の地位が高まり、金堂が薬師寺の中心的
建物となったのである。
 薬師寺の金堂像は中央が薬師如来であり、脇侍(脇侍)として日光菩薩、月光菩薩が左右に安置されている。この三尊は各々三メートルを超す巨像であり、その黒びかりの美しさは喩えようがない。和辻哲郎は
「東洋美術の最高峰」「とろけるような美しさ」「日本という国が明確に成立した時代ーすなわち美術史上の白鳳時代を理解する鍵」とまで絶賛している。
 photo_hotoke_seikannonbosatu.jpgもう一つ忘れてならないのは東院堂に祀られている聖観音像である。これも黒びかりしている仏像であり白鳳期の最高傑作の一つである。亀井勝一郎は聖観音には「印をむすんだその指の一つ一つが花びらのように美しく繊細である」と述べている。
 金堂薬師如来像の台座は素晴らしい模様が彫られている。葡萄唐草文様、南方土人風の蛮人たちが四方に浮彫されている。また下がまちには青竜、南には朱雀、西には白虎、北には玄武といったペルシャ様式が取り入れられている。その文様はギリシャ、中近東、シルクロード、唐の国際性を感じさせるものであった。





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唐 招 提 寺

image.jpg  
 薬師寺より唐招提寺への道は美しい。三月とは言え、もう春であった。お水取りの次の日であったが、日中は暖かい。この道は奈良周辺では私が一番好きな道である。土塀が崩れているが、飛鳥地方ほど廃墟ではなく、むしろ戦後間もない日本が貧しかった時代を象徴する道であり、この付近を散策するのは今でも楽しい。
 唐招提寺の前に立つと、朱塗りの南大門をくぐる前に、息をのむ思いがする。門を額縁にして、金堂と八本の円柱が美しい。この円柱はギリシャ神殿のエンタシスに比べられる。天平期には数多くの寺が建立された、諸国に国分寺、国分尼寺が造営された。しかし、天平時代の金堂を今に残すのは唐招提寺のみである。
 井上靖が「天平の甍」を著したことでも有名である。

  おほてらの  まろき はしらの つきかげを つち にふみ 
   つつ  もの を こそ おもえ (会津八一「鹿鳴集」) 

 唐招提寺は鑑真のお寺である。鑑真は日本への渡航を果たすため五度も失敗し、ついに薩摩に着いたのは天平勝宝六(754)年であった。六度目の挑戦で、しかも失明した。その目的は授戒を正しく伝えるためであり、東大寺に戒壇院(戒壇院の名称で登場している)、聖武太政天皇、孝謙天皇をはじめ四百人以上の人に授戒した。鑑真和上は天平宝宇三(759)年に現在の土地を与えられ、唐招提寺を建立した。最初にお堂は講堂であった。講堂は学問をするお堂であり、鑑真和上生存中に建てられたのは講堂のみであった。
金堂は鑑真和上示寂後の宝亀年間(770~780年)と推定されている。
 金堂は、金網が張られ、中には入れない。金堂内には盧舎那仏、千手観音菩薩、薬師如来立像の巨像が並ぶ。その他には梵天、帝釈天および四天王の九体の仏像(すべて国宝)は唐招提寺様式と呼ばれ、鑑真和上と同行し唐から渡来した仏師たちが建立したのではなかと言われているほど、天平仏の中で異色である。
 講堂に入る時に、堂のお守りをする老婆が「それ、天平の音がする」と、お堂の扉をギーと開けてくれたのは今でも鮮明に記憶に残っている。K君と天平婆さんと呼んで懐かしいだものである。講堂内には唐招提寺勅額、十一面観音立像、薬師如来立像、如来型立像(トルソー)等、現在の新法蔵に安置されている仏像が並んでいた。(いずれも重要文化財)金堂よりは、講堂の方が身近に拝されて、記憶に残っている。

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 鑑真和上を語るためには「鑑真和上像」を祀る御影堂を述べねばならない。しかし、鑑真和上像は六月六日の忌日にしか開扉されない。その時は残念ながら拝することはできなかった。昭和44(1969)年に私は神戸に転勤し、待望の鑑真和上の忌日(前後1週間は開扉)に家族と共にお参りした。脱活乾漆像であり、日本の彫刻像の最高傑作であり、天平の色彩が残っていた。(すべて昭和二十年代の日本美術の定説に従ったが、現在では異説が多い。特に梅原猛の「隠された十字架」新潮文庫に異説が詳しい。)
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2011年02月11日

興福寺ー廃仏稀釈の嵐

 昭和28年の新緑の頃,K君(法学部)と連れ立って興福寺を訪ねたのも記憶に残る旅であった。
 近鉄奈良駅を降りて、まず奈良公園を目指した。ひときわ目を引くのが興福寺の五重塔である。奈良の町は東が高くなっているので、どこからでも塔は見える。興福寺は当時の政界の実力者であった藤原氏の氏寺として建立され、都が京に移っても繁栄したお寺であった。
 しかし、昭和28年頃には、門も塀もない、荒れ果てた寺であった。記憶に残る建物は五重塔、東金堂、中金堂、三重塔、南円堂、北円堂位いであった。とに角、中世に至るまで絶対的権威を持っていた興福寺は、度重なる火災や、明治維新の廃仏毀釈のため、見る影もない程荒れていた。
    秋風や  囲いもなしに  興福寺   子規
 拝観ができたのは東金堂と中金堂のみであった。東金堂の拝観で驚いたのは、白鳳時代の山田寺の仏頭である。これは大化改新(645年)の時に中大兄皇子(後の天智天皇)側についた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまる)が創建した山田寺の本尊である。
200px-Buddha_Head_Yamadadera.jpgこの像は石川麻呂の追福するために作られた本尊であり、白鳳仏を代表する傑作である。私が一番好きな仏像の一つである。本来は丈六(象高1丈六尺=約4.8メートル)の仏塔頭である。文治3(1187年)に山田寺から奪い、再興された東金堂の本尊に祀られたものである。まことに数奇な運命をたどった仏像である。500年以上も本尊の台座の中に収められていた。昭和12(1937年)の東金堂解体修理の際に発見され、大きな話題となった。
220px-Eastern_Golden_Hall_Kofukuji_inside.jpg 東金堂は、神亀3(726年)、聖武天皇が、叔母にあたる元正太政天皇の病気平癒を祈って建立したお堂である。興福寺には3つの金堂があり、東にある金堂なので、東金堂と呼ばれる。現在の建物は応永22(1415年)の再興であるが、国宝に指定されている。
 東金堂の本尊は薬師如来坐像、両脇侍は日光・月光菩薩である。(いずれも重文)
本尊を取り巻く維摩居士像、文殊菩薩像、四天王像は鎌倉時代の国宝である。
興福寺は天平時代の名品と鎌倉時代の名品に恵まれた、日本一国宝が多いお寺である。280px-Kofukuji12st5s3200.jpgしかし、明治の初年に、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、興福寺も衰退した。この五重塔が」250円で売り出され、あわや焼いて金物だけを集める計画であったが、火災の危険のため中止されたそうである。
 興福寺は、稀に見る天平仏と鎌倉仏の宝庫であったが、昭和28年頃には、八部衆(阿修羅仏像等)や、十大弟子立像などの名品は、奈良国立博物館に委託展示されていた。
 だから、今から見ると「荒れ果てた」とか「山田寺仏頭」しか記憶に残らないのは、止むを得ないことであった。
 しかし、昭和28年頃にも、北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(重文)と、建築物で国宝4件、重要文化財2件の堂塔があり、それなりに立派なお寺であった。
 會津八一は、次の詩を残している。
興福寺をおもふ
  はる きぬ と いま も もろびと ゆき かへり
       ほとけ  の  には に はな さく らしも
 会津八一は「自注鹿鳴集」に次ぎのように記している。
「明治に入りては諸制度一変のために全く衰弱に陥れり。その五重塔と東金堂が、今も奈良市の景観の中心を成せるには、真に多とすべきでも、その建立は室町時代を遡るものにあらず。これより古きものは、北円堂と三重塔とがあれど、これ等もまた、鎌倉時代を上げるものにあらざるのみにあらず。観光者にしてその存在に注意する者も少なし」
「そもそも天平時代に於けるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、須らく先ず「続日本記」と「万葉集」とを読み、併せて「興福寺流記」または「諸寺縁起集」中のこの寺の条を読むべし。まことに咲く花の匂うが如きものありしを知るべし」
(明治41年より大正3年に至る)古い本であるが、興福寺の衰退を悲しんでいる。
 興福寺の衰退を嘆き、「見る影もないほど荒れ果てた寺」と感じた19歳の私の感性には鋭いものがあったと思う。
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2011年02月10日

新薬師寺ー十二神将の寺

 昭和28年の新緑の頃,K君と二人で興福寺を廻った後、奈良市内を歩いて新薬師寺まで辿りついたのも、楽しい記憶である。
 新薬師寺まで歩くのは結構時間が掛かった。今ならばバスで行くことになろうが、交通事情も不便な時代であり、奈良市内を南から北まで歩き回った思い出は貴重である。新薬師寺の当たりは、高畠地区と呼ばれ
志賀直哉旧宅や白毫寺がある。
 2006_05_15.jpg新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願のため、天平9年(747)勅願により光明皇后によって建立されたと伝えれている。(お寺の縁起より)
 新薬師寺の「新」は新しいではなく「あらたかな」薬師寺という意味だそうである。天平時代には東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍が甍を並べてお寺であったそうである。
 現在は本堂(奈良時代、国宝)を残すのみで、この金堂も創建当時は食堂であったと考えられている。
 天平時代の食堂を改めた本堂内には堂々たる薬師如来像(平安時代、国宝)が安置されている。眼病平癒を祈ったせいか、眼が大きいいのが特徴である。その肩から胸に流れる線は肉感的感覚を覚える。堂々たる体躯、正に密教精神の具現であろう。古来から眼病耳病の仏として霊験あらたかであるそうだ。
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 本堂の円形土檀上には、本尊を囲んで安置されている塑像十二神将像(天平時代、国宝)が美しい。十二神将像は多いが、新薬師寺をもって最高の傑作と思う。
 あるいは剣を持ち、あるいは矢を持って須弥壇上に囲繞する十二神将像は、わが国最古、最大の神将である。
 中でも迷企羅大将(めきらたいしょう)(寺伝では伐折羅大将となっている)は、最高傑作であり、高校の日本史の教科書にも採用されている。
 十二神将は、薬師如来を護衛する十二人の大将である。
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 子丑寅卯・・・・十二支の方向に向かってそれぞれ責任を負わされている。いずれも武装して武器を持つ。儀軌(ぎき)によれば各自の持ち物について制約があるが、必ずしも約束通りの持ち物ではない。
 後世は、十二神将の頭部に十二支像を付けるものが多くなった。一種の日本化であろう。
このお寺には「香薬師」(こうやくし)と呼ばれる美しい白鳳仏があったが、盗難にあって未だに出てこない。
 会津八一は、次の詩を残している。
 新薬師寺の金堂にて
 たびびと  に ひらく みどう  の  しとみ  より
       めきら  が  たち  に  あさひ  さしたり
「自銘鹿鳴集」には、次の文章を残している。
「今の金堂にて、本尊薬師如来を囲繞せる十二神将は、本尊より古き様式を持つのみならず、廃滅せる岩淵寺より移入せりという伝説あり。しかるにこの寺の別堂に近頃まで安置せる香薬師の立像は、その様式、これらの神将より更に古し。いずれも本末を顛倒せるものの如し。またこの寺の最初の十二神将は、何かの時か興福寺の宗徒のために奪い去られて、その寺の東金堂の壇上に陳列されておりしことは、保延6年(1140)の{七大寺巡礼私記}に記しあれども、かの治承4年(1180)の罹災により堂とともに全滅して、今またみるべからず。諸仏の運命も、その果敢なきこと人間界に似たりというべきなり。」
 この会津八一の説は、一番珍しい意見であり、大いに参考になった。
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法華寺ー美貌の皇后

 昭和27年の秋、紅葉を求めてK君(法学部)と二人で法華寺まで歩いた旅も懐かしい思い出である。
東大寺の転害門(てがいもん)を出発点とした佐保路である。この佐保路の歴史は古い。平城京の都市計画による南一条通りにあたるこの道は、また平城京の内裏と東大寺を一直線に結ぶ街道でもあった。大仏開眼の日には、聖武上皇、孝謙女帝、光明皇太后らがこの道を大仏殿に急いだのであろう。
 寺伝によれば、聖武天皇の后・光明皇后発願の日本総国分尼寺・法華滅罪乃寺である。
 境内への通用門である山門には「不許酒五辛入門内」の石柱が立っている。不浄なものを寄せ付けまいとする門跡尼寺のか細いけれども凛とした姿勢が、この一本の石柱に象徴されている。
 260px-Akishinodera1.jpg昭和27年頃には、現在の金堂は建て替え中であり、庵主様のお住まいに上げてもらった。そのお住まいに着く前に「からふろ」があった。 皇后が貧困病苦の者たちをからふろに招いて施療供養をしてやり、自ら彼らの背を流してやった。
ところが全身ウミだらけの病人が現れ、一瞬皇后はたじろいだが、そのウミを唇で吸い取ってたると、病人は後光を発し、仏菩薩となったと伝えられている。
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 庵主のお住まいには、美貌の皇后、光明皇后のお姿をモデルにして、天竺の問答師が作った三体の一体であるという寺伝が残っている。それを信じさせる程に、一木彫のこの像の肢体容貌はあやしく美しい。
 200610290010.jpg蓮華を挿した寶瓶を左手に持ち、右手で天衣のすそをちょっと持ち上げている。蓮池の上を散策されるお姿だという。後ろに放射する後背の線はすべて蓮の花と華の柄であり、意匠もすばらしい。唇の朱が妖しい。平安時代初期の作で国宝である。
 お住まいであるから、飾られた横笛像には「思い出多き文づたえをもって自像を作り、ひたすら仏道に精進されしと伝える尼像、すなわちこれなり」と寺の説明書きにある。
 平家物語によれば、滝口入道が、横笛に送った、思いを込めた手紙は、横笛を揺り動かしたに違いない。その手紙を固めて、自らの像を作ったという横笛の女心が感じられる。庵主様のお住まいであるから、女らしい「貝合わせ」「御所人形」「市松人形」が美しく飾られていた。




  会津八一は、次の詩を残している。
   ふじはら  の おほき  きさき  を  うつしみ   に
           あひみる   ごとく   あかき   くちびる
 「自注鹿鳴集」には、次の文章を残している。
「されど、この寺の本尊が、この観音像よりも一時代早き丈六の如来像なりしことは{諸寺縁起}{元弘訳書}などに明らかなるのみならず、現に同寺に丈六型の如来像の頭一個と、脇侍と見ゆる天部像の頭二個を有することも併せて感がふべきなり」
「この像に対すれば、皇后の目のあたりに見るが如しといふなり。伝説によれば、北天竺の乾佗羅国の王が、遥かにこの皇后の美貌を伝え聞き、彫刻家にしてその名を文答師といふものを遣わして、皇后の顧ひて写生して作らしめたる三躯の肖像のうち、一躯は本国に持ち帰り、他の二躯はこの国に留め、この寺と施願寺との安置せりということ{興福寺流記}{興福寺濫觴記}などに見ゆ。」
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秋篠寺ー伎芸天の寺

 法華寺の裏側に海龍王寺がある。昭和28年頃には開扉していなかった。このお寺の五重塔のミニチュア(国宝)が奈良国立博物館に寄託展示されていたが、お寺自体は非公開であった。
  この海龍王寺の北を真っ直ぐ歩くと、近鉄西大寺の駅に着く。更に30分ほど歩くと、有名な秋篠寺に着く。
260px-Akishinodera1.jpg正に平城京の隅にある。
 このお寺は、あと四、五年で長岡遷都という、奈良時代でも末期の宝亀11年(780)、光仁天皇の本願で建立されたお寺である。天皇は翌年73歳で没している。奈良朝最後の官寺として、その創建の歴史からして、いささか悲劇的である。
 そんなことも手伝い、この寺の雰囲気には哀愁とでも言った静寂がただよう。昭和20年代に秋篠寺まで、足を延ばす観光客は少なかった。しかし、付近の人たちの深い信仰もつなぎ止めていた。多くの大和古寺が観光寺院に変貌していく中にあって、信仰を失わないゆかしい一面を持っているお寺である。
2007_03_07.jpgお寺に入ると、一面の苔が迎えてくれる。奈良では珍しい緑濃い苔と竹林である。
 本堂は、天平様式も残して鎌倉時代に再建に近い大修理をしたらしい。鎌倉時代の建築物として国宝の指定を受けている。
 本堂の土間の正面、向拝日壁の前一面に須弥壇が高い。その上に、薬師三尊を中心に、諸仏がずらりと横に並んでいる。
 本尊の薬師如来は平安時代の素木像、脇侍の日光・月光は彩色仏像である。もともと一具ではなくて、脇侍は梵天・帝釈天らしいと言われる。更に十二神将が左右に並び、地蔵菩薩の西側に有名な伎芸天が立っている。
hyaku_akishino0019.jpg秋篠寺と言えば、伎芸天である。頭部が奈良時代、胴体は鎌倉時代の木造彩色、破綻のない接合は見事である。お顔には憂いを含んだような口もととまなざしにかすかな微笑が見られる。この像の魅力があふれている。伎芸天が技芸の仏として有名であり、習い事をする女性の守り仏として、長く愛されてきた。
 帝釈天像は伎芸天の陰に隠れて、あまり語られないが、伎芸天と同じく頭部が奈良時代の乾漆像、胴体を鎌倉時代に後補して継ぎ足したものである。
 本堂の左手に建つ小さなお堂が大元堂である。大元帥明王が立っている。護国、外敵退散の神である。国内兵乱のときや、戦時中に信仰を集めたのであろう。
 秋篠寺のこの像は秘仏である。一般の拝観は6月6日だけである。唐招提寺の鑑真和上の開扉と同じ日である。偶然であろうが、観光客には、覚えておけば便利である。
  会津八一は、次の詩を残している。
    秋篠寺にて
   たかむら  の さし  いる  かげ  も うらさびし
           ほとけ   いまさぬ   あきしの  の  さと
 「自注鹿鳴集」には、次のように記している。
「ほとけいまさぬ・この詩を詠しころには、この寺の求脱菩薩、伎芸天、梵天など、美術として世に聞こえたる諸像は多くは博物館に寄託して、堂内は甚だ寂しかりしをいう」
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