2020年01月05日
奈良当麻寺をめぐるたび
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2012年05月17日
根津美術館を楽しむー輝く光琳展
根津美術館は地下鉄表参道駅の近くで、便利なため年間数回は楽しむことにしている。特に4月下旬から5月下旬までは、一番楽しみにしている尾形光琳の「燕子花図屏風」(国宝)が、毎年出展される。
更に今年は、ニューヨーク・メトロポリタン美術館が所蔵する「八橋図屏風」(同じく光琳作)が並んで
出展されるとのことで、昨年から楽しみにしていた。両作品は「伊勢物語」第九段の「東下り」のうち三河国八橋における挿話を極端なまでに装飾化した作品として有名である。
まず、この展覧会を知らせるポスターが光っている。

特別記念展 KORIN展ー国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館「八橋図」−
根津美術館では翌年の展覧会のスケジュールを入館者に渡してくれる。昨年10月頃に展覧会を観た時に、今年の4月21日から特別展として開催されることが告知されていた。
この両作品は、およそ100年ぶりに日本で再会し、かつ並んで楽しめることが事前に判っていた。
今更説明するまでもなく、根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた根津嘉一郎氏(1860〜1940年)が蒐集した日本・東洋の古美術品コレクションを保存し、展示するために作られた美術館である。
2009年10月に根津美術館は開館特別記念展を開催し、面目を一新した。特別展としては1階の第1、第2展示室が使用される。1階の展示室3 ホールには中国・日本・インドの古い仏像類が並べられている。2階の展示室4には、「古代中国の青銅器」が飾られている。展示室5では、漆器類が並べられている。展示室6には茶器が並べられている。
尾形光琳は万治元年(1658)に京都の呉服商雁金屋(かりかねや)・尾形宗謙の二男として生まれ、
弟乾山は寛文3(1663)年に生まれている。雁金屋は当時の貴族階級に出入りした有力な老舗であった。はなやかな衣装文様を見ながら育った光琳は、もともと豪華な装飾的感覚を身につけていたのは育ちからして当然であったが、長じて狩野派に学び、大和絵を勉強した後に、大先輩宗達の開いた装飾画の流れに惹かれ、しだいに文様の世界から古典的な物語絵の世界に踏み入れるようになった。光琳の描く世界は装飾性と緊張感により、琳派の完成者の地位を築くことになった。
今回、展覧される「燕子花図」と「八橋図」に並んで優れているのが、現在熱海MOA美術館で展覧されている「紅白梅図屏風」(国宝)である。
光琳は元禄14(1702)年、44歳の時に法橋に叙任されている。
さて、「伊勢物語八橋図」は、「伊勢物語」の第九段「東下り」、主人公が東国へ下る途中、三河国の八橋で燕子花の群生を前に都に残した恋人を想い、「かきつばた」の五文字を句の頭に織り込んだ
「から衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ」と謡う場面である。

それが「燕子花図屏風」(根津美術館・国宝)になると、総金地に濃淡の群青と緑青のみによって描き出された燕子花の群生の図である。それは、正に描かなくても「伊勢物語」を感じさせる何かが潜んでいる。
簡略化と装飾性である。光琳が絵画の制作をはじめて10年前後の、光琳美術の頂点を示す作品であろう。
署名は法橋光琳となっている。

隣に、メトロポリタン美術館の「八橋図屏風」が並べられている。何と豪華な配列であろう。
これも総金地画面いっぱいに燕子花を描いているが、一双画面の右上から左下にかけて黒っぽい橋が、まるで稲妻のように描かれている。橋は八橋を示すものである。これも「物語性」の回復はなく、幾何学的な文様や質感を導入することによって、屏風絵に新機軸をもたらしたもんである。署名は青々光琳である。

横に「夏草図屏風」が並んでいた。
特別展の2号室には酒井抱一編の「光琳百図」2冊(前編 文化12−1815年、後編 文政9−1826年)が並んでいた。
「白楽天図屏風」も並んでいた。謡曲「白楽天」にもとづく作品であるそうだ。

「銹絵壽老人図角皿」は、尾形乾山の作陶した角皿に光琳が寿老人を描き、乾山が漢詩の賛を書している。。こうした光琳が絵付けに当たり、乾山が賛をほどこした銹絵作品は、乾山焼のヒット商品であったそうである。光琳が乾山焼きの絵付けにたずさわるのは宝永6(1709)年からである。署名は寂明光琳(花押)である。

なお、本展覧会に出品されている訳ではないが、光琳傑作の一つ熱海MOA美術館所蔵の「紅白梅図屏風」(国宝)と、「風神雷神図」(東京国立博物館、重要文化財)を併せて示しておく。これは「尾形光琳生誕350周年」を記念して、2008年10月に東京国立博物館で開催された「大琳派展ー継承と変奏」で拝観したものである。


常設展として2階の展示室4の「古代中国の青銅器」では、殷時代(紀元前13−11世紀)の双羊尊(重要文化財)を示す。

展示室6では「初夏の茶」が催されていた。鼠志野茶碗 銘 山の端(重要文化財)が目立った。お茶器の国宝や重要文化財は珍しい。

展示室3の「仏像彫刻の魅力」では、クシャーン時代の石仏「弥勒菩薩立像」(3世紀)が古い。

美術館の庭は広くて、深山幽谷の趣きがある。良くぞ、表参道にこれだけの土地を確保したものであると驚かさされる。庭にはカフェレストランがあり、これも根津美術館を訪ねる楽しみである。レストラン側から見た根津美術館の本館の写真である。

更に今年は、ニューヨーク・メトロポリタン美術館が所蔵する「八橋図屏風」(同じく光琳作)が並んで
出展されるとのことで、昨年から楽しみにしていた。両作品は「伊勢物語」第九段の「東下り」のうち三河国八橋における挿話を極端なまでに装飾化した作品として有名である。
まず、この展覧会を知らせるポスターが光っている。
特別記念展 KORIN展ー国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館「八橋図」−
根津美術館では翌年の展覧会のスケジュールを入館者に渡してくれる。昨年10月頃に展覧会を観た時に、今年の4月21日から特別展として開催されることが告知されていた。
この両作品は、およそ100年ぶりに日本で再会し、かつ並んで楽しめることが事前に判っていた。
今更説明するまでもなく、根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた根津嘉一郎氏(1860〜1940年)が蒐集した日本・東洋の古美術品コレクションを保存し、展示するために作られた美術館である。
2009年10月に根津美術館は開館特別記念展を開催し、面目を一新した。特別展としては1階の第1、第2展示室が使用される。1階の展示室3 ホールには中国・日本・インドの古い仏像類が並べられている。2階の展示室4には、「古代中国の青銅器」が飾られている。展示室5では、漆器類が並べられている。展示室6には茶器が並べられている。
尾形光琳は万治元年(1658)に京都の呉服商雁金屋(かりかねや)・尾形宗謙の二男として生まれ、
弟乾山は寛文3(1663)年に生まれている。雁金屋は当時の貴族階級に出入りした有力な老舗であった。はなやかな衣装文様を見ながら育った光琳は、もともと豪華な装飾的感覚を身につけていたのは育ちからして当然であったが、長じて狩野派に学び、大和絵を勉強した後に、大先輩宗達の開いた装飾画の流れに惹かれ、しだいに文様の世界から古典的な物語絵の世界に踏み入れるようになった。光琳の描く世界は装飾性と緊張感により、琳派の完成者の地位を築くことになった。
今回、展覧される「燕子花図」と「八橋図」に並んで優れているのが、現在熱海MOA美術館で展覧されている「紅白梅図屏風」(国宝)である。
光琳は元禄14(1702)年、44歳の時に法橋に叙任されている。
さて、「伊勢物語八橋図」は、「伊勢物語」の第九段「東下り」、主人公が東国へ下る途中、三河国の八橋で燕子花の群生を前に都に残した恋人を想い、「かきつばた」の五文字を句の頭に織り込んだ
「から衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ」と謡う場面である。
それが「燕子花図屏風」(根津美術館・国宝)になると、総金地に濃淡の群青と緑青のみによって描き出された燕子花の群生の図である。それは、正に描かなくても「伊勢物語」を感じさせる何かが潜んでいる。
簡略化と装飾性である。光琳が絵画の制作をはじめて10年前後の、光琳美術の頂点を示す作品であろう。
署名は法橋光琳となっている。
隣に、メトロポリタン美術館の「八橋図屏風」が並べられている。何と豪華な配列であろう。
これも総金地画面いっぱいに燕子花を描いているが、一双画面の右上から左下にかけて黒っぽい橋が、まるで稲妻のように描かれている。橋は八橋を示すものである。これも「物語性」の回復はなく、幾何学的な文様や質感を導入することによって、屏風絵に新機軸をもたらしたもんである。署名は青々光琳である。
横に「夏草図屏風」が並んでいた。
特別展の2号室には酒井抱一編の「光琳百図」2冊(前編 文化12−1815年、後編 文政9−1826年)が並んでいた。
「白楽天図屏風」も並んでいた。謡曲「白楽天」にもとづく作品であるそうだ。
「銹絵壽老人図角皿」は、尾形乾山の作陶した角皿に光琳が寿老人を描き、乾山が漢詩の賛を書している。。こうした光琳が絵付けに当たり、乾山が賛をほどこした銹絵作品は、乾山焼のヒット商品であったそうである。光琳が乾山焼きの絵付けにたずさわるのは宝永6(1709)年からである。署名は寂明光琳(花押)である。
なお、本展覧会に出品されている訳ではないが、光琳傑作の一つ熱海MOA美術館所蔵の「紅白梅図屏風」(国宝)と、「風神雷神図」(東京国立博物館、重要文化財)を併せて示しておく。これは「尾形光琳生誕350周年」を記念して、2008年10月に東京国立博物館で開催された「大琳派展ー継承と変奏」で拝観したものである。
常設展として2階の展示室4の「古代中国の青銅器」では、殷時代(紀元前13−11世紀)の双羊尊(重要文化財)を示す。
展示室6では「初夏の茶」が催されていた。鼠志野茶碗 銘 山の端(重要文化財)が目立った。お茶器の国宝や重要文化財は珍しい。
展示室3の「仏像彫刻の魅力」では、クシャーン時代の石仏「弥勒菩薩立像」(3世紀)が古い。
美術館の庭は広くて、深山幽谷の趣きがある。良くぞ、表参道にこれだけの土地を確保したものであると驚かさされる。庭にはカフェレストランがあり、これも根津美術館を訪ねる楽しみである。レストラン側から見た根津美術館の本館の写真である。
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2012年04月26日
毛利家の至宝ー大名文化の精粋
サントリー美術館で「毛利家の至宝」が開催されている。山口県防府市にある毛利博物館(防府毛利奉公会)は、一度訪ねてみたい美術館であった。しかし、山口県はあまりにも遠く、果たせぬ夢となった。
しかし、考えてみれば、現役時代に広島や尾道にしばしば出張していた。また、事業を始めてから10年程度は毎月福岡まで経営指導に出かけていた。帰りの飛行機を新幹線に替えて、防府市で途中下車する方法もあった筈であるが、遂に言い訳をしながら訪ねることが出来なかった。
一つは、一番の魅力である雪舟の「山水長巻」を2002年に東京国立博物館で開催された「没後500年特別展 雪舟」で2回見たことが大きな原因であったかも知れない。
しかし、この度サントリー美術館・東京ミッドタウン開設5周年を記念して「毛利家の至宝ー大名文化の精粋」が開催されることにより、永年の夢が適うこととなった。
東京ミッドタウンが所在する場所は、江戸時代には毛利家の下屋敷があった場所であり、毛利家ゆかりの土地で「毛利家の至宝」展が開催されることは意義深いものを感ずる。
さて、毛利家の祖は、源頼朝の側近として鎌倉幕府の基礎を築いた大江広元(1148〜1225年)である。第四子季光(すえみつ)が、相模国毛利荘(現在の厚木市の辺り)を受け継いだ以後、毛利を称し、
後に季光の孫時親(ときちか)が、安芸国吉田郡山城に移り、安芸毛利氏の祖となった。
毛利元就(1497〜1571年)は、兄の死や、その子供の早世により、大永3(1533)年に毛利氏の家督を相続し、天文15(1546)年に嫡子隆元(たかもと)に譲るまで、群雄割拠する戦国時代に、幾多の戦いを乗り越え、晩年には広大な中国十ヵ国を領有する西国最大の大名となった。絵は毛利元就
の生前の風貌を伝える画像であり、66歳で尼子氏との中国制覇をかけた合戦の前の画像である。一に三ツ星紋があしらわれた大紋の直垂を付けている。

ここでは太刀、軍扇、軍旗、軍配、鎧等が多数並んでいる。やはり幾多の古文書が一番歴史的価値があるだろう。特に豊臣秀吉自筆書状写、徳川家康誓詞(いずれも重文)等は歴史的価値が高い文書であろう。
有名な「三子教訓状」は「毛利元就自筆書状(弘治3、1557年)として展示されている。兄弟の結束を求めた話として有名であるが、元就の冷静な情勢判断と政治構想をまとめた書である。(重文)

しかし、興味をそそられるのは「木印日本国王之印」と「朱漆雲龍鎗金」である。これは「室町幕府三代将軍の足利義満が、応仁の乱により大内義弘を倒し、関門海峡の通行権を確保し、明に使節を派遣、臣属する見返りとして{日本国王}に任じられた。この印鑑は、明の皇帝に奉呈する国書に押すため、明より下されたものである。本来金印であったが、いつの間にか紛失し、木製のこの印で代用されるようになったようである。大内氏の滅亡により毛利元就の所有となった。印を収める箱が鎗金(中国の漆器)」で、豪華なものである。(いずれも重文)「 」内は、解説書より引用、以下同じ。
高校の日本史では、義満が「日本国王」と僭称したとして、厳しく論難される代物である。

次に「銅印通信符」も珍しい。「朝鮮王朝から山口を本拠とする守護大名大内氏に下された銅製の印鑑で、印面には{通信符}の半分が彫られている。大内氏が派遣する使者には、この印を押して持たせ、朝鮮側に残された左半分と照合したとされる。黄銅六花文印箱は、朝鮮王朝より下された銅印通信符を収めた印箱である。」(いずれも重文)

その他「灰吹銀」は、石見銀山から産出した銀と考えられる。戦国大名毛利氏の重要な財源となったのであろう。
今回の最大の見所は、雪舟の「四季山水図」(国宝)を全期間に亘って、全部(16メートル)を公開したことである。室町時代の画僧、雪舟等楊(1420〜1506年頃)の代表作であり、日本の水墨画の中でも屈指の名作である。

「四季山水図(複本)」は、伝雲谷等顔が描いた模本であり(江戸時代初期)、国宝に指定されている。
「史記呂后本記第九」は、中国時代の司馬遷が編集した中国最初の正史である。(国宝)毛利家の祖としている大江氏は平安時代、文章博士として宮廷に仕え、多くの学者、文化人を排出した家柄であり、毛利家がいかに大江家学問の道を重要視していたかが偲ばれる名品である。

古今和歌集巻八(高野切)は、王朝貴族の高雅な趣きを漂わせている。(国宝)

「古今和歌集は、わが国最初の勅撰和歌集で、延喜5(905)年に醍醐天皇の詔により、紀貫之など四人の歌人によって撰修されたものである。古今集は多数の古写本が残るが最も古いものは十一世紀半ば頃の成立と推定される高野切である。古今集全二十巻のうち、完本の形で残る「高野切」は三巻のみである。毛利博物館が所蔵するのは巻八は、その内の一巻である。」
毛利家が「古今和歌集巻八(高野切)」を所蔵するのは、大江家という学者の血筋を引くからであろう。
婚礼調度、雛飾り、能楽、茶の湯等語るべきものは多いが、最後に毛利家の江戸麻布屋敷を示す「江戸麻布邸遠望図」(江戸時代後期)を示したい。

この図は、「屋敷内の東側に位置した庭園を西方から描いたものである。毛利家は寛永13(1634)年に、麻布に約三万坪の下屋敷地拝領が許された。それが現在の東京ミッドタウンが建つ広大な敷地である。」
作者は谷文晁の子、谷文二(1812〜1850年)である。
「毛利家の至宝」は、5月27日まで公開されている。高校時代に習った日本史の実物を詳しく見る絶好の機会である。是非、拝観されることをお勧めする。
しかし、考えてみれば、現役時代に広島や尾道にしばしば出張していた。また、事業を始めてから10年程度は毎月福岡まで経営指導に出かけていた。帰りの飛行機を新幹線に替えて、防府市で途中下車する方法もあった筈であるが、遂に言い訳をしながら訪ねることが出来なかった。
一つは、一番の魅力である雪舟の「山水長巻」を2002年に東京国立博物館で開催された「没後500年特別展 雪舟」で2回見たことが大きな原因であったかも知れない。
しかし、この度サントリー美術館・東京ミッドタウン開設5周年を記念して「毛利家の至宝ー大名文化の精粋」が開催されることにより、永年の夢が適うこととなった。
東京ミッドタウンが所在する場所は、江戸時代には毛利家の下屋敷があった場所であり、毛利家ゆかりの土地で「毛利家の至宝」展が開催されることは意義深いものを感ずる。
さて、毛利家の祖は、源頼朝の側近として鎌倉幕府の基礎を築いた大江広元(1148〜1225年)である。第四子季光(すえみつ)が、相模国毛利荘(現在の厚木市の辺り)を受け継いだ以後、毛利を称し、
後に季光の孫時親(ときちか)が、安芸国吉田郡山城に移り、安芸毛利氏の祖となった。
毛利元就(1497〜1571年)は、兄の死や、その子供の早世により、大永3(1533)年に毛利氏の家督を相続し、天文15(1546)年に嫡子隆元(たかもと)に譲るまで、群雄割拠する戦国時代に、幾多の戦いを乗り越え、晩年には広大な中国十ヵ国を領有する西国最大の大名となった。絵は毛利元就
の生前の風貌を伝える画像であり、66歳で尼子氏との中国制覇をかけた合戦の前の画像である。一に三ツ星紋があしらわれた大紋の直垂を付けている。
ここでは太刀、軍扇、軍旗、軍配、鎧等が多数並んでいる。やはり幾多の古文書が一番歴史的価値があるだろう。特に豊臣秀吉自筆書状写、徳川家康誓詞(いずれも重文)等は歴史的価値が高い文書であろう。
有名な「三子教訓状」は「毛利元就自筆書状(弘治3、1557年)として展示されている。兄弟の結束を求めた話として有名であるが、元就の冷静な情勢判断と政治構想をまとめた書である。(重文)
しかし、興味をそそられるのは「木印日本国王之印」と「朱漆雲龍鎗金」である。これは「室町幕府三代将軍の足利義満が、応仁の乱により大内義弘を倒し、関門海峡の通行権を確保し、明に使節を派遣、臣属する見返りとして{日本国王}に任じられた。この印鑑は、明の皇帝に奉呈する国書に押すため、明より下されたものである。本来金印であったが、いつの間にか紛失し、木製のこの印で代用されるようになったようである。大内氏の滅亡により毛利元就の所有となった。印を収める箱が鎗金(中国の漆器)」で、豪華なものである。(いずれも重文)「 」内は、解説書より引用、以下同じ。
高校の日本史では、義満が「日本国王」と僭称したとして、厳しく論難される代物である。
次に「銅印通信符」も珍しい。「朝鮮王朝から山口を本拠とする守護大名大内氏に下された銅製の印鑑で、印面には{通信符}の半分が彫られている。大内氏が派遣する使者には、この印を押して持たせ、朝鮮側に残された左半分と照合したとされる。黄銅六花文印箱は、朝鮮王朝より下された銅印通信符を収めた印箱である。」(いずれも重文)
その他「灰吹銀」は、石見銀山から産出した銀と考えられる。戦国大名毛利氏の重要な財源となったのであろう。
今回の最大の見所は、雪舟の「四季山水図」(国宝)を全期間に亘って、全部(16メートル)を公開したことである。室町時代の画僧、雪舟等楊(1420〜1506年頃)の代表作であり、日本の水墨画の中でも屈指の名作である。
「四季山水図(複本)」は、伝雲谷等顔が描いた模本であり(江戸時代初期)、国宝に指定されている。
「史記呂后本記第九」は、中国時代の司馬遷が編集した中国最初の正史である。(国宝)毛利家の祖としている大江氏は平安時代、文章博士として宮廷に仕え、多くの学者、文化人を排出した家柄であり、毛利家がいかに大江家学問の道を重要視していたかが偲ばれる名品である。
古今和歌集巻八(高野切)は、王朝貴族の高雅な趣きを漂わせている。(国宝)
「古今和歌集は、わが国最初の勅撰和歌集で、延喜5(905)年に醍醐天皇の詔により、紀貫之など四人の歌人によって撰修されたものである。古今集は多数の古写本が残るが最も古いものは十一世紀半ば頃の成立と推定される高野切である。古今集全二十巻のうち、完本の形で残る「高野切」は三巻のみである。毛利博物館が所蔵するのは巻八は、その内の一巻である。」
毛利家が「古今和歌集巻八(高野切)」を所蔵するのは、大江家という学者の血筋を引くからであろう。
婚礼調度、雛飾り、能楽、茶の湯等語るべきものは多いが、最後に毛利家の江戸麻布屋敷を示す「江戸麻布邸遠望図」(江戸時代後期)を示したい。
この図は、「屋敷内の東側に位置した庭園を西方から描いたものである。毛利家は寛永13(1634)年に、麻布に約三万坪の下屋敷地拝領が許された。それが現在の東京ミッドタウンが建つ広大な敷地である。」
作者は谷文晁の子、谷文二(1812〜1850年)である。
「毛利家の至宝」は、5月27日まで公開されている。高校時代に習った日本史の実物を詳しく見る絶好の機会である。是非、拝観されることをお勧めする。
posted by オフの日 at 16:27| Comment(0)
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2012年04月14日
長谷川等伯ー一代で狩野派と肩を並べる
今、日本経済新聞の朝刊に安部龍太郎氏の「等伯」が連載され、1年以上に及ぶ長編であり、既に440号を超えている。丁度、等伯の絶頂期にさしかかり、天下人秀吉の寵愛を受け、故鶴丸君の供養のために東山七条に祥雲寺を建立することとなり、その障壁画を等伯に任せたいと依頼され、等伯や嫡男久蔵と長谷川一門が、今日に残る名作を描く時期である。更に、等伯の嫡男久蔵が名護屋のお城に絵を描く最中に足場が崩れて事故死するという悲劇の始まりでもある。(文禄2年、1593年)等伯55歳の時である。
等伯は天文8(1539)年、七尾の地に能登畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子として生まれた。幼い頃に、染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられた。等伯の生家(奥村家)も養子に入った長谷川家も、共に法華経を篤く信仰した法華衆であり、等伯自身も法華信者であった。能登国に沢山の日蓮上人図、釈迦・多宝図等の絵を「信春」という名前で書いている。
元亀2(1571)年頃に等伯は恐らく33歳くらいの時に、養家の父宗清、母妙相が相次いで没し、信春は上洛したものと思われる。
養子に入った長谷川家の養祖父、養父から絵の手ほどきを受け、彼らもまた絵を描いていたとする見方が強まっている。
等伯については「長谷川家系譜」「等伯画説」などの文書によりかなり明らかになってきた。最近の説では「雪舟ー等春ー無文(養祖父・法淳)−宗清(養父・道淨)ー等伯」という画系の可能性が高まってきた。(私見として、等伯が無理に画系を作り上げたと考えている。いわば「成り上がり者説」である。)
等伯の一族は絵仏師として仏画を描いた法華衆であり、彼が生きた時代は、政治・経済・文化の様々な場面で、歴史が大きく変革した時代であり、戦乱の世が長引くなかで、上下の区別なく人々は何かに祈りを捧げていた時代であり、人々の心に法華宗が広まった時代でもあった。
等伯最大の傑作「松林図屏風」(東京国立博物館、国宝)について、黒田泰三氏は「文禄3,4(1594〜5)年頃(等伯56~57歳頃)と推定している。

その頃、等伯は千利久と親しくし、文禄4(1595)年に、千利久図を描いている。(等伯57歳)等伯は50代で絵画の頂点を極めたと思う。

さて、祥雲寺の障壁画(天正19、1593年)こそ、現在の智積院の障壁画である。天下人秀吉の命を受けて描いた障壁画により、大画師の地位を揺るぎないものとした。(等伯53歳)


更に、等伯は、本法寺の大檀越となって、本法寺に多大な寄進を行った一つが「仏涅槃図」(重文)である。この涅槃図には、日通の手によって「願主 自雪舟五代長谷川等伯 六十一歳 謹書」と書かれている。

「自雪舟五代」と唱えることは、長谷川一族が絵師の名門の家柄であることを表す言葉である。(私見としては、等伯の背伸びである。)
等伯は、慶長15(1610)年に徳川家康の招きによって、久蔵の弟、宗宅を伴って江戸に向かい、その旅の途上、病により2月24日、江戸で72歳の生涯を閉じたのである。
平成22(2010)年4月に、等伯没後400周年を記念して、東京国立博物館で「長谷川等伯展」が開催された。
東伯の描いた国宝、重文約80点も並ぶ最大級の展覧会であり、会場には人があふれた、
圧倒的な人気を集めたのは、京都智積院の「楓図壁貼付」「松に秋草図屏風」(いずれも国宝)、と松林図の世界の「松林図屏風」(東京国立博物館、国宝)の3点であった。
昨年(2011年秋)には、出光美術館で「長谷川等伯展」が開催され、大勢の人を集めた。
さて、16世紀の終わり頃、京都では狩野派全盛の時代であり、狩野永徳一派と天正18(1590)年に御所造営時に際し、対屋(たいのや)の障壁画で争うこととなった。御用絵師として長年の名門を誇る狩野派と能登国から来た田舎絵師等伯が、激しく争ったことが、当時の貴族勧修寺春豊の日記「春豊公記」の天正18(1590)年8月8日の条に{「はせ川と申す者は内裏のご造営で対屋の襖絵を描かせることにしたのは、迷惑である」旨を、狩野永徳が嫡男の光信と弟の宗秀を伴い申し出に来た}という記事が残っている。この「はせ川と申す者」とは等伯のことであり、当時、等伯がいかに狩野派に肉薄する実力を有していたかが判る。
慶長4(1579)年に法橋に任ぜられ、ボストン美術館の龍虎図屏風には「自雪舟五代長谷川法橋等伯 六十八歳」と記している。

どうも、法橋と自称する当たりから、等伯の描く絵画に独自性が失われ、迫力が薄れたと思うのは私だけの見解であろうか。しかし、いずれにせよ等伯一代で、狩野派と相対峙する実力を発揮した事実には拍手を送りたい。
等伯の傑作を一番楽に見る方法は、京都駅からバスに乗り、東山七条で降りて、智積院を訪ねることである。等伯最大の傑作、楓図壁貼付、久蔵の桜図襖絵共に国宝に指定されている。ついでに三十三間堂、京都国立博物館を廻ることをお勧めする。わずか3時間で、日本の誇る国宝を心ゆくまで浸ることが出来る。
等伯は天文8(1539)年、七尾の地に能登畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子として生まれた。幼い頃に、染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられた。等伯の生家(奥村家)も養子に入った長谷川家も、共に法華経を篤く信仰した法華衆であり、等伯自身も法華信者であった。能登国に沢山の日蓮上人図、釈迦・多宝図等の絵を「信春」という名前で書いている。
元亀2(1571)年頃に等伯は恐らく33歳くらいの時に、養家の父宗清、母妙相が相次いで没し、信春は上洛したものと思われる。
養子に入った長谷川家の養祖父、養父から絵の手ほどきを受け、彼らもまた絵を描いていたとする見方が強まっている。
等伯については「長谷川家系譜」「等伯画説」などの文書によりかなり明らかになってきた。最近の説では「雪舟ー等春ー無文(養祖父・法淳)−宗清(養父・道淨)ー等伯」という画系の可能性が高まってきた。(私見として、等伯が無理に画系を作り上げたと考えている。いわば「成り上がり者説」である。)
等伯の一族は絵仏師として仏画を描いた法華衆であり、彼が生きた時代は、政治・経済・文化の様々な場面で、歴史が大きく変革した時代であり、戦乱の世が長引くなかで、上下の区別なく人々は何かに祈りを捧げていた時代であり、人々の心に法華宗が広まった時代でもあった。
等伯最大の傑作「松林図屏風」(東京国立博物館、国宝)について、黒田泰三氏は「文禄3,4(1594〜5)年頃(等伯56~57歳頃)と推定している。
その頃、等伯は千利久と親しくし、文禄4(1595)年に、千利久図を描いている。(等伯57歳)等伯は50代で絵画の頂点を極めたと思う。
さて、祥雲寺の障壁画(天正19、1593年)こそ、現在の智積院の障壁画である。天下人秀吉の命を受けて描いた障壁画により、大画師の地位を揺るぎないものとした。(等伯53歳)
更に、等伯は、本法寺の大檀越となって、本法寺に多大な寄進を行った一つが「仏涅槃図」(重文)である。この涅槃図には、日通の手によって「願主 自雪舟五代長谷川等伯 六十一歳 謹書」と書かれている。
「自雪舟五代」と唱えることは、長谷川一族が絵師の名門の家柄であることを表す言葉である。(私見としては、等伯の背伸びである。)
等伯は、慶長15(1610)年に徳川家康の招きによって、久蔵の弟、宗宅を伴って江戸に向かい、その旅の途上、病により2月24日、江戸で72歳の生涯を閉じたのである。
平成22(2010)年4月に、等伯没後400周年を記念して、東京国立博物館で「長谷川等伯展」が開催された。
東伯の描いた国宝、重文約80点も並ぶ最大級の展覧会であり、会場には人があふれた、
圧倒的な人気を集めたのは、京都智積院の「楓図壁貼付」「松に秋草図屏風」(いずれも国宝)、と松林図の世界の「松林図屏風」(東京国立博物館、国宝)の3点であった。
昨年(2011年秋)には、出光美術館で「長谷川等伯展」が開催され、大勢の人を集めた。
さて、16世紀の終わり頃、京都では狩野派全盛の時代であり、狩野永徳一派と天正18(1590)年に御所造営時に際し、対屋(たいのや)の障壁画で争うこととなった。御用絵師として長年の名門を誇る狩野派と能登国から来た田舎絵師等伯が、激しく争ったことが、当時の貴族勧修寺春豊の日記「春豊公記」の天正18(1590)年8月8日の条に{「はせ川と申す者は内裏のご造営で対屋の襖絵を描かせることにしたのは、迷惑である」旨を、狩野永徳が嫡男の光信と弟の宗秀を伴い申し出に来た}という記事が残っている。この「はせ川と申す者」とは等伯のことであり、当時、等伯がいかに狩野派に肉薄する実力を有していたかが判る。
慶長4(1579)年に法橋に任ぜられ、ボストン美術館の龍虎図屏風には「自雪舟五代長谷川法橋等伯 六十八歳」と記している。
どうも、法橋と自称する当たりから、等伯の描く絵画に独自性が失われ、迫力が薄れたと思うのは私だけの見解であろうか。しかし、いずれにせよ等伯一代で、狩野派と相対峙する実力を発揮した事実には拍手を送りたい。
等伯の傑作を一番楽に見る方法は、京都駅からバスに乗り、東山七条で降りて、智積院を訪ねることである。等伯最大の傑作、楓図壁貼付、久蔵の桜図襖絵共に国宝に指定されている。ついでに三十三間堂、京都国立博物館を廻ることをお勧めする。わずか3時間で、日本の誇る国宝を心ゆくまで浸ることが出来る。
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2012年04月12日
東大寺ミュージアムと法華堂ー法華堂の謎に迫る
12年1月18日、私は大阪の外食産業で新しく株式公開した社長と面談し、記事を書く機会に恵まれた。東京に真っ直ぐ帰るのも勿体ないと思い、奈良に1泊して、翌19日の小雨の降る中で奈良の古寺を廻った。
今回の最大の目的は、新設された東大寺ミュージアムを訪ね、展示物やミュージアムを仔細に見学することであった。
東大寺ミュージアムは旧東大寺学園跡地に、東大寺の総合的な文化発信基地となるミュージアム、図書館、収蔵庫、寺史研究所、華厳学研究所、ホールを擁する東大寺総合文化センターであり、11年10月10日にオープンしたものである。

私の目的は、そこに展示された法華堂の本尊と日光、月光菩薩を身近に拝観することであった。10時オープンで、空もようもあやしくなるなか、オープンまで30分待った。当日は平日のため、観光客は少なく、私が一番乗りであった。まず、真っ先に不空羂索観音像と日光・月光菩薩像が並ぶ中央の間に進んだ。

観音立像は、それまで、体を飾っていた宝冠や、光背がなく(修理中であろう)、言ってみれば、一切の装飾を省いた生まれたままの仏像である。法華堂の中では、あまりにも大きく(3.62メートル)、仰ぎ見るような感じであり、堂内の暗さも手伝い、良く見えないが、しかし、東大寺の中では一番古い観音像として拝んだものである。
それがミュージアムにすっぴんの形で展示されると、まるで別尊のような感覚であり、ミュージアムが大きいため、それ程違和感もなく、1時間程立ち尽くして言葉もなく感激して、観音像と日光・月光菩薩像に見入った。この3体はいずれも国宝であり、特に日光(向かって右)・月光(向かって左)菩薩像は、天平彫刻の白眉であり、その顔のふくよかさ、神々しさ、その合掌する姿の自然さは人間性を解脱しつつ、しかもなお人間性を維持し続けつづける像と言ってもよい。
現在は、修理の終わった不空羂索観音像の宝冠が拝観できるそうである。(写真は修理前)

見るべき物は多数あったが、東大寺の前に立つ金堂八角燈籠羽目板の一面(国宝)が珍しかった。

ミュージアムは、東大寺の聖教、古文書、古記録と絵画、考古品等多数が展示され、兎に角身近に明るい場所で見学できることは嬉しい。これからも、展示替えを行い、東大寺の宝物を次々と展示するであろう。
さて、法華堂(三月堂)は、現在修理中であり、すべての仏像が運び出されている。この修理の機会を利用して、法華堂の仏像の基壇の研究が進められている。

実は、前回の平成8(1996)年の法華堂諸仏の修理の際、仏像を移動、調査して意外な事実が明らかになった。(日経新聞12年3月4日)文化庁主任文化財調査官、奥健夫氏が、09年9月の「仏教藝術」に寄せた「東大寺法華堂八角二重檀小考」と題する論文が招介されている。奥論文は「ここで注意されるのは、これらの八角台座の痕跡が日光月光菩薩像並びに戒壇院堂四天王像の台座底面輪郭と一致することである」と記している。更に「六体の保存状態の良好さは、安置されていた堂が火災に遭ったり倒れたりした場合には有り得ず、それが安置される堂宇とともに相当長い間伝えられてきたことによると見るのが自然である。東大寺で奈良時代の建立になる唯一の仏堂である法華堂の八角二重檀の下段に、大きさと形が一致する六個の台座痕跡がある以上、塑像六体は、かってここに安置されていた可能性を積極的に考えて良いのではないか」と述べている。
日光・月光菩薩像は「客仏」と長く考えられてきた。(事実、私が「幾山河」に書いた東大寺でも、塑像は客仏と断言している。昭和20年代の日本美術史による、としているが、日経を読むまで、客仏と考えていた)しかし、新しい真実が明らかになった。
奥論文のもう一つの重要な点は、本尊に関する記述である。「法華堂は建立当初、不空羂索観音像とは別の本尊を安置していたが、のち(かなり早い時期であろう)に、当初の本尊に替えて他所より光背・台座付の不空羂索観音像を本尊に向え、その際に基壇下段には六躯の塑像を安置した」としている。
更に、今回の調査で、執金剛神像(秘仏・国宝)を加えた7体の塑像が、本尊である不空羂索観音像の周囲に、同じ高さで侍立していたことがほぼ明らかになった。」(日経新聞より)
実は、「日光・月光菩薩」と戒壇院の「四天王像」とは、その技量、塑土の組成、彩色法などに類似が見られることは既に指摘され、もともと同じ堂にあったという説さえあったのである。田中英道氏は「同じ作家の静と動を現現するものとしてこの二組の傑作の共通性は大きい」としている。恐るべき認識である。

戒壇院の四天王(広目天像の立像)

広目天像の面

執金剛神像(秘仏)原色が美しい。これが天平仏だ。
東大寺の誇る天平の至宝は、すべて法華堂に安置されていたとする新説には興奮を感じる。特に戒壇院の四天王(中でも広目天立像は、高校の教科書にも載った)は、高校時代からの憧れの的であった。
今までの常識が覆る瞬間であった。
今回の最大の目的は、新設された東大寺ミュージアムを訪ね、展示物やミュージアムを仔細に見学することであった。
東大寺ミュージアムは旧東大寺学園跡地に、東大寺の総合的な文化発信基地となるミュージアム、図書館、収蔵庫、寺史研究所、華厳学研究所、ホールを擁する東大寺総合文化センターであり、11年10月10日にオープンしたものである。
私の目的は、そこに展示された法華堂の本尊と日光、月光菩薩を身近に拝観することであった。10時オープンで、空もようもあやしくなるなか、オープンまで30分待った。当日は平日のため、観光客は少なく、私が一番乗りであった。まず、真っ先に不空羂索観音像と日光・月光菩薩像が並ぶ中央の間に進んだ。
観音立像は、それまで、体を飾っていた宝冠や、光背がなく(修理中であろう)、言ってみれば、一切の装飾を省いた生まれたままの仏像である。法華堂の中では、あまりにも大きく(3.62メートル)、仰ぎ見るような感じであり、堂内の暗さも手伝い、良く見えないが、しかし、東大寺の中では一番古い観音像として拝んだものである。
それがミュージアムにすっぴんの形で展示されると、まるで別尊のような感覚であり、ミュージアムが大きいため、それ程違和感もなく、1時間程立ち尽くして言葉もなく感激して、観音像と日光・月光菩薩像に見入った。この3体はいずれも国宝であり、特に日光(向かって右)・月光(向かって左)菩薩像は、天平彫刻の白眉であり、その顔のふくよかさ、神々しさ、その合掌する姿の自然さは人間性を解脱しつつ、しかもなお人間性を維持し続けつづける像と言ってもよい。
現在は、修理の終わった不空羂索観音像の宝冠が拝観できるそうである。(写真は修理前)
見るべき物は多数あったが、東大寺の前に立つ金堂八角燈籠羽目板の一面(国宝)が珍しかった。
ミュージアムは、東大寺の聖教、古文書、古記録と絵画、考古品等多数が展示され、兎に角身近に明るい場所で見学できることは嬉しい。これからも、展示替えを行い、東大寺の宝物を次々と展示するであろう。
さて、法華堂(三月堂)は、現在修理中であり、すべての仏像が運び出されている。この修理の機会を利用して、法華堂の仏像の基壇の研究が進められている。
実は、前回の平成8(1996)年の法華堂諸仏の修理の際、仏像を移動、調査して意外な事実が明らかになった。(日経新聞12年3月4日)文化庁主任文化財調査官、奥健夫氏が、09年9月の「仏教藝術」に寄せた「東大寺法華堂八角二重檀小考」と題する論文が招介されている。奥論文は「ここで注意されるのは、これらの八角台座の痕跡が日光月光菩薩像並びに戒壇院堂四天王像の台座底面輪郭と一致することである」と記している。更に「六体の保存状態の良好さは、安置されていた堂が火災に遭ったり倒れたりした場合には有り得ず、それが安置される堂宇とともに相当長い間伝えられてきたことによると見るのが自然である。東大寺で奈良時代の建立になる唯一の仏堂である法華堂の八角二重檀の下段に、大きさと形が一致する六個の台座痕跡がある以上、塑像六体は、かってここに安置されていた可能性を積極的に考えて良いのではないか」と述べている。
日光・月光菩薩像は「客仏」と長く考えられてきた。(事実、私が「幾山河」に書いた東大寺でも、塑像は客仏と断言している。昭和20年代の日本美術史による、としているが、日経を読むまで、客仏と考えていた)しかし、新しい真実が明らかになった。
奥論文のもう一つの重要な点は、本尊に関する記述である。「法華堂は建立当初、不空羂索観音像とは別の本尊を安置していたが、のち(かなり早い時期であろう)に、当初の本尊に替えて他所より光背・台座付の不空羂索観音像を本尊に向え、その際に基壇下段には六躯の塑像を安置した」としている。
更に、今回の調査で、執金剛神像(秘仏・国宝)を加えた7体の塑像が、本尊である不空羂索観音像の周囲に、同じ高さで侍立していたことがほぼ明らかになった。」(日経新聞より)
実は、「日光・月光菩薩」と戒壇院の「四天王像」とは、その技量、塑土の組成、彩色法などに類似が見られることは既に指摘され、もともと同じ堂にあったという説さえあったのである。田中英道氏は「同じ作家の静と動を現現するものとしてこの二組の傑作の共通性は大きい」としている。恐るべき認識である。
戒壇院の四天王(広目天像の立像)
広目天像の面
執金剛神像(秘仏)原色が美しい。これが天平仏だ。
東大寺の誇る天平の至宝は、すべて法華堂に安置されていたとする新説には興奮を感じる。特に戒壇院の四天王(中でも広目天立像は、高校の教科書にも載った)は、高校時代からの憧れの的であった。
今までの常識が覆る瞬間であった。
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2012年04月05日
ボストン美術館展ー日本美術の至宝(2)
4月4日に2回目のボストン美術館展を観た。何回見ても素晴らしいものばかりである。実は、ほぼ同じ作品を、昭和58(1983)年5月に京都国立博物館で拝観している。
その時は「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展」というテーマで、絵画のみであったが、多数の浮世絵を展覧していたことが、大きな相違点である。
1980(昭和50)年4月に、私は明治乳業の京都支店長として、京都に赴任していたので、よく美術展や京都・奈良・滋賀県のお寺を拝観していた。そういう意味では、学生時代以来、最も美術品や寺社へ拝観する機会の多い時期であった。
4月4日の美術展で、特に気に入った作品を紹介する。

まず、第1章の「仏のかたち神のすがた」では、一番気に入ったのは普賢延命菩薩像でえある。平安時代(12世紀)の作品で、延命菩薩であるから、密教儀式では、人の体の中にあって命の障害となる病を消し、生命力を増す菩薩として信仰されていた。三つの頭を持つ白象も綺麗である。兎に角、保存状態が良く、原色が鮮やかに残っている点が素晴らしいと思う。

第2章「海を渡った二大絵巻」では、今回は「吉備大臣入唐絵巻」を招介する。

吉備真備(きびのまきび)は、養老元年(717)および天平勝宝4(752)年に遣唐使として唐に渡った実在の人物である。本絵巻は「吉備大臣物語」の前半に相当する部分を絵画化したものである。小学生
を3名程引率していた先生が、小学生達にマンガの「ヒーローズ」のような話だと言って、絵巻物をリズミカルに説明しているのが印象に残った。子供達にも、楽しい春休みの記憶となったであろう。
第3章の「静寂の輝きー中世水墨画と初期狩野派」では、伝狩野源信の「韃靼人狩猟図」を挙げたい。(本邦初公開)

第4章「奇才 曽我蕭白」は、すべて絵になっているが、「風仙図屏風」を招介したい。

まるで漫画の世界である。大きく渦巻く漆黒の雲を前に、猛烈な風の中で剣を持った男と、風に吹き飛ばされ転がる滑稽な男を描く。
その時は「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展」というテーマで、絵画のみであったが、多数の浮世絵を展覧していたことが、大きな相違点である。
1980(昭和50)年4月に、私は明治乳業の京都支店長として、京都に赴任していたので、よく美術展や京都・奈良・滋賀県のお寺を拝観していた。そういう意味では、学生時代以来、最も美術品や寺社へ拝観する機会の多い時期であった。
4月4日の美術展で、特に気に入った作品を紹介する。
まず、第1章の「仏のかたち神のすがた」では、一番気に入ったのは普賢延命菩薩像でえある。平安時代(12世紀)の作品で、延命菩薩であるから、密教儀式では、人の体の中にあって命の障害となる病を消し、生命力を増す菩薩として信仰されていた。三つの頭を持つ白象も綺麗である。兎に角、保存状態が良く、原色が鮮やかに残っている点が素晴らしいと思う。
第2章「海を渡った二大絵巻」では、今回は「吉備大臣入唐絵巻」を招介する。
吉備真備(きびのまきび)は、養老元年(717)および天平勝宝4(752)年に遣唐使として唐に渡った実在の人物である。本絵巻は「吉備大臣物語」の前半に相当する部分を絵画化したものである。小学生
を3名程引率していた先生が、小学生達にマンガの「ヒーローズ」のような話だと言って、絵巻物をリズミカルに説明しているのが印象に残った。子供達にも、楽しい春休みの記憶となったであろう。
第3章の「静寂の輝きー中世水墨画と初期狩野派」では、伝狩野源信の「韃靼人狩猟図」を挙げたい。(本邦初公開)
第4章「奇才 曽我蕭白」は、すべて絵になっているが、「風仙図屏風」を招介したい。
まるで漫画の世界である。大きく渦巻く漆黒の雲を前に、猛烈な風の中で剣を持った男と、風に吹き飛ばされ転がる滑稽な男を描く。
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2012年04月02日
法輪寺・法起寺を巡るー聖徳太子ゆかりのお寺
法隆寺へお参りすれば、必ず中宮寺、法輪寺、法起寺を廻ることにしている。中宮寺については、既に大学時代の思い出として「會津八一のうたとともに」として書いた。
今回は、法輪寺と法起寺の思い出をかくことにした。
中宮寺を出て歩けば、そこは斑鳩の里であり、入江泰吉氏の「大和古寺巡礼」の世界である。現在は法隆寺を含めて世界遺産に登録されているが、今でも観光客は少ない。折角、斑鳩の里まで足を運んで、太子ゆかりのお寺にお参りしないのは如何にも勿体ないと思う。
法輪寺は、三井という地名を取って三井寺とも法淋寺とも呼ばれている。山背大兄王(やましろのおおえ)が、父聖徳太子のために建てたと言われている。伽藍配置は法隆寺と同じ様式であり、規模が三分の二に企画されていることから、再建の法隆寺とほぼ同じ時期に建立されたと見られている。発掘調査で見つかった瓦の文様が法隆寺に似ていることも、その原因に上げられている。
法輪寺の三重塔は、昭和19(1944)年7月に、雷火によって焼失した。70年前には、法隆寺の五重塔、法起寺と法輪寺の三重塔が一度に眺められる場所があった。昭和50(1975)年に幸田文さん等の呼びかけで資金が集まり、西岡常一棟梁のもと、旧来の場所に創建当初の姿で再建された。

境内に入ると東に金堂、西に新しい三重塔、正面中央に講堂(収蔵庫)がある。私の学生時代の記憶では、金堂に仏像が並べられていた。

収蔵庫には、本尊の薬師如来像と伝虚空像菩薩等が並んでいた。寺伝では飛鳥仏と称していたが、法隆寺再建後の寺と思われるので、正確には白鳳仏と呼ぶべきであろう。
因みに、虚空蔵菩薩の風貌は、私のゼミの指導教官であった四方先生の面影に似ていると思った。


小学館発行の「原色日本の美術」第2巻「法隆寺」(昭和41、1956年刊)では、久野健氏(当時東京国立文化財研究所員)が「衣文の表現がやわらかくなり、目も二重瞼になっている点などは、やはり白鳳時代に入ってからの制作かと推定される」としている。
何でも古ければ良しとした時代風潮に対して、真に学者らしい態度であると感心したことを覚えている。
法起寺は、聖徳太子がここに別宮岡本京を設けていたとされ、山背大兄王(聖徳太子の子供)が、宮跡に寺を建立されたと伝えられている。このため、岡本寺とも呼ばれるし、地名をとって池後寺(いけじりてら)とも呼ばれている。三重塔の露盤銘によれば、塔は天武13(685)年に起工し、慶雲3(706)年に露盤を上げたと記録されている。
現在は創建の建物はこの塔しか残っていない。

塔の高さは23.9メートル、三重塔としては最古、白鳳時代の建物としては法隆寺の諸堂と法起寺の二ケ所のみである。淡麗な姿は、斑鳩の里に映える。
昭和35(1960)年の境内発掘調査で金堂遺構が発見され、塔が右にある法隆寺とは反対の伽藍配置、即ち法起寺式であることが判った。塔以外の建物は室町以降のもので、寺内には、ほかに見るべきものはない。
今回は、法輪寺と法起寺の思い出をかくことにした。
中宮寺を出て歩けば、そこは斑鳩の里であり、入江泰吉氏の「大和古寺巡礼」の世界である。現在は法隆寺を含めて世界遺産に登録されているが、今でも観光客は少ない。折角、斑鳩の里まで足を運んで、太子ゆかりのお寺にお参りしないのは如何にも勿体ないと思う。
法輪寺は、三井という地名を取って三井寺とも法淋寺とも呼ばれている。山背大兄王(やましろのおおえ)が、父聖徳太子のために建てたと言われている。伽藍配置は法隆寺と同じ様式であり、規模が三分の二に企画されていることから、再建の法隆寺とほぼ同じ時期に建立されたと見られている。発掘調査で見つかった瓦の文様が法隆寺に似ていることも、その原因に上げられている。
法輪寺の三重塔は、昭和19(1944)年7月に、雷火によって焼失した。70年前には、法隆寺の五重塔、法起寺と法輪寺の三重塔が一度に眺められる場所があった。昭和50(1975)年に幸田文さん等の呼びかけで資金が集まり、西岡常一棟梁のもと、旧来の場所に創建当初の姿で再建された。
境内に入ると東に金堂、西に新しい三重塔、正面中央に講堂(収蔵庫)がある。私の学生時代の記憶では、金堂に仏像が並べられていた。
収蔵庫には、本尊の薬師如来像と伝虚空像菩薩等が並んでいた。寺伝では飛鳥仏と称していたが、法隆寺再建後の寺と思われるので、正確には白鳳仏と呼ぶべきであろう。
因みに、虚空蔵菩薩の風貌は、私のゼミの指導教官であった四方先生の面影に似ていると思った。
小学館発行の「原色日本の美術」第2巻「法隆寺」(昭和41、1956年刊)では、久野健氏(当時東京国立文化財研究所員)が「衣文の表現がやわらかくなり、目も二重瞼になっている点などは、やはり白鳳時代に入ってからの制作かと推定される」としている。
何でも古ければ良しとした時代風潮に対して、真に学者らしい態度であると感心したことを覚えている。
法起寺は、聖徳太子がここに別宮岡本京を設けていたとされ、山背大兄王(聖徳太子の子供)が、宮跡に寺を建立されたと伝えられている。このため、岡本寺とも呼ばれるし、地名をとって池後寺(いけじりてら)とも呼ばれている。三重塔の露盤銘によれば、塔は天武13(685)年に起工し、慶雲3(706)年に露盤を上げたと記録されている。
現在は創建の建物はこの塔しか残っていない。
塔の高さは23.9メートル、三重塔としては最古、白鳳時代の建物としては法隆寺の諸堂と法起寺の二ケ所のみである。淡麗な姿は、斑鳩の里に映える。
昭和35(1960)年の境内発掘調査で金堂遺構が発見され、塔が右にある法隆寺とは反対の伽藍配置、即ち法起寺式であることが判った。塔以外の建物は室町以降のもので、寺内には、ほかに見るべきものはない。
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2012年03月25日
淨瑠璃寺ー末法の世の極楽淨土
昭和40(1965)年1月上旬に、私はまだ見ぬ淨瑠璃寺を目指して一人で、関西本線加茂駅から約4キロの道を歩いた。ここは、奈良県に近いが、実は京都府相楽郡加茂町である。勿論、時間さえまてばバスはあったと思うが、山城国を1月に歩くのも悪くないと思って、テクテクと歩いた。
地理的には、奈良の若草山の裏側に当たり、むしろ奈良の一部であり、事実今では近鉄奈良駅から春、秋には定期観光バスが出ている。
勿論、1965年頃には、そのような便利な交通手段はなかった。加茂駅からか、近鉄奈良駅から歩くのが一番早かったのである。
加茂駅から約1里強の道を歩いた記憶はいまだに残っている。本来お寺にお参りするということは、一寺を目指してはるばる歩くのが奈良、平安時代の常識であったろう。そういう意味で、この淨瑠璃寺への1里強の道のりは、楽しい思い出であり、昔の人は皆このように歩いたのであろうと思った。山あいの静かな部落にたどり着き、その奥に淨瑠璃寺を見出したときの安心感と歓びは格別であった。
この寺の歴史には2説あり、1説には聖武天皇の勅願で行基が開いたと伝えられている。しかし、南北朝時代に書き残された「淨瑠璃寺流記事」によると平安中期の長和2(1013)年に頼善が建立した小田原寺と、永承7(1052)年義明上人が西小田原本堂の造立がこの寺の確かな創建であると思う。この時代には末法思想が貴族の間で広がっていた。

末法思想というのは、釈迦入滅ののち、正法、像法の世を経て末法の世に入ると、仏法は衰えて修行の功もなく、天災地変がはびこるという極めて悲観的な考えで、平安中期から貴族の間でも言われるようになった。
その時代には正法千年、像法千年と信じられていた。そうすると末法のはじまりは永承7(1052)年となって、藤原道長の死後25年しかないのである。彼ら都の貴族は、はためには天下の果報者のように見えても、その実心中きわめて不安な日々を送ったであろうことは推測できる。
藤原道長が法成寺を建立したときにも末法時代の到来を予測したに違いない。法成寺の大きな中心が阿弥陀堂にあり、そこで道長が浄土教の作法に従って臨終を迎えたことは、疑いのない事実である。
この時代には現世を逃れ、後世の安楽を願う心が高まり、極楽往生にあこがれる風潮が広まっていたのである。
淨瑠璃寺は、このような思想的背景の中で生まれたので、九体の阿弥陀如来(国宝)は、堂の内陣に一列に安置されている。像高2.2メートルあまりの堂々たる中尊をはさんで、左右四体づつ、1.3〜1.8
メートルの坐像がずらりと並んだ様は、これが極楽浄土かと当時の人々を圧倒させるのに十分であったであろう。中尊は定朝作と伝えられている。左右の八体も、それぞれ異なった表情や衣文を持ち、しかも全体の群像として統一され、平安時代の典型的な作ばかりである。九体寺は、平安時代には沢山作られたが、現在まで残っているのは、この淨瑠璃寺のみである。都を離れた所に創られたためであろう。

堂内には、秘仏とされる吉祥天立像(重要文化財)がある。高さは90センチ、その豊麗な容ぼう、ふっくらとした衣を通して感じられる肉体、衣の細やかなひだや瓔珞、更に鮮烈な彩色が残っている。美が凝縮した天女である。

境内の真ん中に大きな池がある。最初に訪れた時は、まだ整備されていなかったが、昭和50(1975)年頃には綺麗に整備され、州浜も美しくなった。この池は伊豆僧正恵心が久安6(1150)年に掘ったと記録に見え、歴史のはっきりした堂前池として庭園史の上でもかけがえのない遺構である。

池を真ん中にして三重塔(国宝)がある。この塔は治承2(1178)年に京都一条大宮から移築したものと言われている。檜皮葺きのしょうしゃな姿は、平安時代末期の気品を備えている。塔内には平安仏の薬師如来(重要文化財)が祀られている。
淨瑠璃寺を最初に訪ねた時は、奈良まで歩くつもりでお寺を出た、途中で車で来た親切な人が近鉄奈良駅
まで送ってくれた。
歩いてお参りしたことや、唯一の九体仏を拝して極楽浄土を思ったり、美しい池に映える三重塔を観たり、親切な人に送ったもらったり、誠に思い出の多い淨瑠璃寺であった。(追記
日本経済新聞12年3月31日の文学周遊に和辻哲郎の古寺巡礼が出た。私は迂闊にも、和辻氏の古寺巡礼に淨瑠璃寺が取り上げられたことは、全く記憶になかった。そこで、古寺巡礼を引き出して、読んでみたら、わずか3ページ程であるが、奈良から歩いて淨瑠璃寺にお参りした記事があった。日経が取り上げているのは、和辻氏がお寺を拝観する前に、池と三重塔を眼前にして、「”古人の抱いた桃源の夢想ーそれが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を選ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるがー”と記し、更に”しかるにその夢想を実現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。われわれはみなかっては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかって子供であった!これがあの心持ちの秘密なのではないか”と書いている。
私はむしろ、その後に続く「しかし何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。開いた扉の間から金色の仏の見えるの見えるのもよかった。あの優しい新緑の景色の内に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい」という文章の方が、和辻氏の真意を示す言葉ではないかと思った。
しかし、和辻氏の文章よりも、私は日経に招介された次の文章の方に興味を持った。「奈良に住み古美術好きの歴史学者、直木孝次郎さん(93)は太平洋戦争開戦前年の40年3月、本書を手に古寺巡りをした。当時淨瑠璃寺を訪れる人は少なく、旧制第一高等学校2年生だった直木さんが、50銭ばかりのお布施を包むと、たった一人の拝観者のために本堂の板扉を開けて拝ませてくれた。これが進路に大きく影響した。
”九体の阿弥陀仏が差し込んだ陽光でくっきり姿を現すさまはすばらしく、前日に見た法隆寺の百済観音の印象と相まって、美術も研究対象にできる日本史を専攻しようと決めました”」
この一文の方がはるかに興味が高かった。それは、直木孝次郎氏の著作に深く傾倒した時期がああったからである。直木先生の書かれた中公バックス「日本の歴史」の第2巻「古代国家の成立」を、私は何十回も繰り返し読んで、飛鳥時代から藤原京への遷都までの歴史を自分の体に覚えこませたのである。(直木孝次郎氏は大正8年兵庫県神戸市生まれ、岡山大学教授。)
地理的には、奈良の若草山の裏側に当たり、むしろ奈良の一部であり、事実今では近鉄奈良駅から春、秋には定期観光バスが出ている。
勿論、1965年頃には、そのような便利な交通手段はなかった。加茂駅からか、近鉄奈良駅から歩くのが一番早かったのである。
加茂駅から約1里強の道を歩いた記憶はいまだに残っている。本来お寺にお参りするということは、一寺を目指してはるばる歩くのが奈良、平安時代の常識であったろう。そういう意味で、この淨瑠璃寺への1里強の道のりは、楽しい思い出であり、昔の人は皆このように歩いたのであろうと思った。山あいの静かな部落にたどり着き、その奥に淨瑠璃寺を見出したときの安心感と歓びは格別であった。
この寺の歴史には2説あり、1説には聖武天皇の勅願で行基が開いたと伝えられている。しかし、南北朝時代に書き残された「淨瑠璃寺流記事」によると平安中期の長和2(1013)年に頼善が建立した小田原寺と、永承7(1052)年義明上人が西小田原本堂の造立がこの寺の確かな創建であると思う。この時代には末法思想が貴族の間で広がっていた。
末法思想というのは、釈迦入滅ののち、正法、像法の世を経て末法の世に入ると、仏法は衰えて修行の功もなく、天災地変がはびこるという極めて悲観的な考えで、平安中期から貴族の間でも言われるようになった。
その時代には正法千年、像法千年と信じられていた。そうすると末法のはじまりは永承7(1052)年となって、藤原道長の死後25年しかないのである。彼ら都の貴族は、はためには天下の果報者のように見えても、その実心中きわめて不安な日々を送ったであろうことは推測できる。
藤原道長が法成寺を建立したときにも末法時代の到来を予測したに違いない。法成寺の大きな中心が阿弥陀堂にあり、そこで道長が浄土教の作法に従って臨終を迎えたことは、疑いのない事実である。
この時代には現世を逃れ、後世の安楽を願う心が高まり、極楽往生にあこがれる風潮が広まっていたのである。
淨瑠璃寺は、このような思想的背景の中で生まれたので、九体の阿弥陀如来(国宝)は、堂の内陣に一列に安置されている。像高2.2メートルあまりの堂々たる中尊をはさんで、左右四体づつ、1.3〜1.8
メートルの坐像がずらりと並んだ様は、これが極楽浄土かと当時の人々を圧倒させるのに十分であったであろう。中尊は定朝作と伝えられている。左右の八体も、それぞれ異なった表情や衣文を持ち、しかも全体の群像として統一され、平安時代の典型的な作ばかりである。九体寺は、平安時代には沢山作られたが、現在まで残っているのは、この淨瑠璃寺のみである。都を離れた所に創られたためであろう。
堂内には、秘仏とされる吉祥天立像(重要文化財)がある。高さは90センチ、その豊麗な容ぼう、ふっくらとした衣を通して感じられる肉体、衣の細やかなひだや瓔珞、更に鮮烈な彩色が残っている。美が凝縮した天女である。
境内の真ん中に大きな池がある。最初に訪れた時は、まだ整備されていなかったが、昭和50(1975)年頃には綺麗に整備され、州浜も美しくなった。この池は伊豆僧正恵心が久安6(1150)年に掘ったと記録に見え、歴史のはっきりした堂前池として庭園史の上でもかけがえのない遺構である。
池を真ん中にして三重塔(国宝)がある。この塔は治承2(1178)年に京都一条大宮から移築したものと言われている。檜皮葺きのしょうしゃな姿は、平安時代末期の気品を備えている。塔内には平安仏の薬師如来(重要文化財)が祀られている。
淨瑠璃寺を最初に訪ねた時は、奈良まで歩くつもりでお寺を出た、途中で車で来た親切な人が近鉄奈良駅
まで送ってくれた。
歩いてお参りしたことや、唯一の九体仏を拝して極楽浄土を思ったり、美しい池に映える三重塔を観たり、親切な人に送ったもらったり、誠に思い出の多い淨瑠璃寺であった。(追記
日本経済新聞12年3月31日の文学周遊に和辻哲郎の古寺巡礼が出た。私は迂闊にも、和辻氏の古寺巡礼に淨瑠璃寺が取り上げられたことは、全く記憶になかった。そこで、古寺巡礼を引き出して、読んでみたら、わずか3ページ程であるが、奈良から歩いて淨瑠璃寺にお参りした記事があった。日経が取り上げているのは、和辻氏がお寺を拝観する前に、池と三重塔を眼前にして、「”古人の抱いた桃源の夢想ーそれが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を選ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるがー”と記し、更に”しかるにその夢想を実現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。われわれはみなかっては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかって子供であった!これがあの心持ちの秘密なのではないか”と書いている。
私はむしろ、その後に続く「しかし何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。開いた扉の間から金色の仏の見えるの見えるのもよかった。あの優しい新緑の景色の内に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい」という文章の方が、和辻氏の真意を示す言葉ではないかと思った。
しかし、和辻氏の文章よりも、私は日経に招介された次の文章の方に興味を持った。「奈良に住み古美術好きの歴史学者、直木孝次郎さん(93)は太平洋戦争開戦前年の40年3月、本書を手に古寺巡りをした。当時淨瑠璃寺を訪れる人は少なく、旧制第一高等学校2年生だった直木さんが、50銭ばかりのお布施を包むと、たった一人の拝観者のために本堂の板扉を開けて拝ませてくれた。これが進路に大きく影響した。
”九体の阿弥陀仏が差し込んだ陽光でくっきり姿を現すさまはすばらしく、前日に見た法隆寺の百済観音の印象と相まって、美術も研究対象にできる日本史を専攻しようと決めました”」
この一文の方がはるかに興味が高かった。それは、直木孝次郎氏の著作に深く傾倒した時期がああったからである。直木先生の書かれた中公バックス「日本の歴史」の第2巻「古代国家の成立」を、私は何十回も繰り返し読んで、飛鳥時代から藤原京への遷都までの歴史を自分の体に覚えこませたのである。(直木孝次郎氏は大正8年兵庫県神戸市生まれ、岡山大学教授。)
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2012年03月22日
ボストン美術館ー日本の美術の至宝
ボストンはアメリカ東海岸で最初に開けた街である。独立戦争のきっかけとなったボストン・ティーパーティー事件でも有名である。
ここのボストン美術館は、アメリカでも最も古い美術館の一つであり、1870年に設立され、アメリカ独立100周年にあたる1876年7月に開館した。
ボストン美術館の最大の特徴は、日本美術コレクションの10万点を超える収蔵品を擁することであり、日本の寺院を再現した「寺院の間」に仏像を展示している程である。この日本美術品の収集に努力したのが、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853〜1908)、ウィリアム・スタージス・ビゲロ
(1850〜1926)、及び岡倉天心(覚三、1863〜1913)の3名である。
フェノロサは明治11(1878)年、帝国大学で政治、哲学を論じた。来日後ほどなくして日本美術に開眼し、研究と収集を進めた。明治23(1890)年に帰国後、ボストン美術館日本美術部長に職に就き、アメリカで日本の美術を広めることに熱心に取り組んだ。ビゲローはボストンの医師であ資産家であった。明治15(1882)年に来日し、フェノロサと共に日本美術の収集に情熱を傾けた。帰国後は長くボストン美術館の理事を務めた。岡倉天心は帝国大学でフェノロサに学び、卒業後東京美術学校の設立に関わった。明治37(1904)年にボストン美術館に迎えられ、後に中国・日本美術部長として、東洋の美術品の体系的な収集に力を注いだ。
今回のボストン美術展を見て、3名の鑑識力の高さに驚いた。国宝、重要文化財クラスの絵画、仏像、美術品が多い。
なぜ、これだけのレベルの文化財が海外に流出したのであろうか?それは、明治政府が取った西欧化政策の一環として廃仏稀釈運動が大きな要因であったと思われる。仏教美術が破棄され、燃やされ、タダ同然の値段で海外に流出したのである。中国の文化大革命のような過激な運動があったのであろう。私は島崎藤村の「夜明け前」を通して、廃仏希釈の流れを知っていたが、これ程までに大規模に日本の美術品が海外へ流出したのかと驚いた。

第1章「仏のかたち、神のかたち」の中では、東大寺法華堂根本曼荼羅図(写真)が、第1に揚げられるだろう。まさか「鎮護国家の寺」から根本曼荼羅図が流れ出すとは考えられないことであるが、それほど明治の初期には、混乱と混濁の時期だったのであろう。その他優れたものとして「普賢延命菩薩像」「一字金輪像」「四天王像」を上げたい。いずれも国宝クラスの仏画である。日本の絵画は掛け軸が多い。どうしても破損、折れ目が出る。ボストン美術館では、掛け軸を切り、ガラスの内装にしている。これが平安時代や鎌倉時代の佛教画を保存するのに適した方法だったのであろう。色も美しいし、保管状態も良い。

仏像の中では快慶作「弥勒菩薩立像」(文治5年、1189年)が優れている。快慶の本像は快慶の年紀に判る最も早い時期の作例である。像内にはお経が納品されており、それにより年号が特定できた。元は、奈良興福寺に伝わったそうである。廃仏希釈の嵐の中で五重塔を250円で売却したお寺であるから、仏像が流出したのも良く判る。ただ、金色に装飾されているのは、私の好みに合わない。古い仏像は、古色蒼然とした方が自然である。金ピカはいただけない。
第2章「海を渡った二大絵巻」は「吉備大臣入唐絵巻」「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」は、いずれも国宝クラスで、観客は長蛇の列をなしていた。日本の絵画の中で、この紅蓮の炎は一番美しいそうである。

第3章「静寂と輝き」は、鎌倉時代の後期に禅僧を介して日本に導入された水墨画である。その後、室町時代前期までには、禅宗寺院に属する禅僧画家達が日本の水墨画を担った。しかし、応仁の乱を契機に、水墨画は狩野派を中心とした職業画家たちに変わった。

傑作は祥啓筆「山水図」(写真)、伝蔵三筆「湘湘八景図屏風」、狩野源信筆「白衣観音」、伝狩野源信筆「金山寺図扇面」等は見応えのある大作であった。
第4章「華開く近代絵画」には、傑作が多い。
まず長谷川等伯筆「龍虎図屏風」(写真)は傑作である。
狩野永納筆「四季花鳥図屏風」、尾形光琳筆「松島図屏風」(写真)、伊藤若冲筆「鸚鵡図」(写真)等は見応えのある大作である。



第5章「奇才 曽我蕭白」には驚いた。近年になって、日本でも蕭白の評判は高いが、明治時代に曽我蕭白を見出した眼力は大したものである。多分岡倉天心が勧めたものであろう。

総数が92点であることも嬉しい。手頃な点数である。これだけであれば、2周は見て、確認が出来る。
素晴らしい「ボストン美術展」は6月10日までのロングランであり、入れ替え無しの全作品が見られる。何回も楽しみたい。
ここのボストン美術館は、アメリカでも最も古い美術館の一つであり、1870年に設立され、アメリカ独立100周年にあたる1876年7月に開館した。
ボストン美術館の最大の特徴は、日本美術コレクションの10万点を超える収蔵品を擁することであり、日本の寺院を再現した「寺院の間」に仏像を展示している程である。この日本美術品の収集に努力したのが、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853〜1908)、ウィリアム・スタージス・ビゲロ
(1850〜1926)、及び岡倉天心(覚三、1863〜1913)の3名である。
フェノロサは明治11(1878)年、帝国大学で政治、哲学を論じた。来日後ほどなくして日本美術に開眼し、研究と収集を進めた。明治23(1890)年に帰国後、ボストン美術館日本美術部長に職に就き、アメリカで日本の美術を広めることに熱心に取り組んだ。ビゲローはボストンの医師であ資産家であった。明治15(1882)年に来日し、フェノロサと共に日本美術の収集に情熱を傾けた。帰国後は長くボストン美術館の理事を務めた。岡倉天心は帝国大学でフェノロサに学び、卒業後東京美術学校の設立に関わった。明治37(1904)年にボストン美術館に迎えられ、後に中国・日本美術部長として、東洋の美術品の体系的な収集に力を注いだ。
今回のボストン美術展を見て、3名の鑑識力の高さに驚いた。国宝、重要文化財クラスの絵画、仏像、美術品が多い。
なぜ、これだけのレベルの文化財が海外に流出したのであろうか?それは、明治政府が取った西欧化政策の一環として廃仏稀釈運動が大きな要因であったと思われる。仏教美術が破棄され、燃やされ、タダ同然の値段で海外に流出したのである。中国の文化大革命のような過激な運動があったのであろう。私は島崎藤村の「夜明け前」を通して、廃仏希釈の流れを知っていたが、これ程までに大規模に日本の美術品が海外へ流出したのかと驚いた。
第1章「仏のかたち、神のかたち」の中では、東大寺法華堂根本曼荼羅図(写真)が、第1に揚げられるだろう。まさか「鎮護国家の寺」から根本曼荼羅図が流れ出すとは考えられないことであるが、それほど明治の初期には、混乱と混濁の時期だったのであろう。その他優れたものとして「普賢延命菩薩像」「一字金輪像」「四天王像」を上げたい。いずれも国宝クラスの仏画である。日本の絵画は掛け軸が多い。どうしても破損、折れ目が出る。ボストン美術館では、掛け軸を切り、ガラスの内装にしている。これが平安時代や鎌倉時代の佛教画を保存するのに適した方法だったのであろう。色も美しいし、保管状態も良い。
仏像の中では快慶作「弥勒菩薩立像」(文治5年、1189年)が優れている。快慶の本像は快慶の年紀に判る最も早い時期の作例である。像内にはお経が納品されており、それにより年号が特定できた。元は、奈良興福寺に伝わったそうである。廃仏希釈の嵐の中で五重塔を250円で売却したお寺であるから、仏像が流出したのも良く判る。ただ、金色に装飾されているのは、私の好みに合わない。古い仏像は、古色蒼然とした方が自然である。金ピカはいただけない。
第2章「海を渡った二大絵巻」は「吉備大臣入唐絵巻」「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」は、いずれも国宝クラスで、観客は長蛇の列をなしていた。日本の絵画の中で、この紅蓮の炎は一番美しいそうである。
第3章「静寂と輝き」は、鎌倉時代の後期に禅僧を介して日本に導入された水墨画である。その後、室町時代前期までには、禅宗寺院に属する禅僧画家達が日本の水墨画を担った。しかし、応仁の乱を契機に、水墨画は狩野派を中心とした職業画家たちに変わった。
傑作は祥啓筆「山水図」(写真)、伝蔵三筆「湘湘八景図屏風」、狩野源信筆「白衣観音」、伝狩野源信筆「金山寺図扇面」等は見応えのある大作であった。
第4章「華開く近代絵画」には、傑作が多い。
まず長谷川等伯筆「龍虎図屏風」(写真)は傑作である。
狩野永納筆「四季花鳥図屏風」、尾形光琳筆「松島図屏風」(写真)、伊藤若冲筆「鸚鵡図」(写真)等は見応えのある大作である。
第5章「奇才 曽我蕭白」には驚いた。近年になって、日本でも蕭白の評判は高いが、明治時代に曽我蕭白を見出した眼力は大したものである。多分岡倉天心が勧めたものであろう。
総数が92点であることも嬉しい。手頃な点数である。これだけであれば、2周は見て、確認が出来る。
素晴らしい「ボストン美術展」は6月10日までのロングランであり、入れ替え無しの全作品が見られる。何回も楽しみたい。
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2012年03月20日
平山郁夫シルクロード美術館ー八ヶ岳山麓の美術館
平山郁夫画伯のシルクロード美術館が、八ヶ岳山麓にあることを知ったのはごく最近である。
平山画伯は、日本を代表する画家であり、かつ世界各国の文化財遺産保護について、個人として多大な貢献をされた方であることは、画伯の著作を通して知っていた。
私は、毎年4月20日頃の清春白樺美術館の桜や美術品、その環境を愛でるために必ず訪ねることにしている。平山郁夫シルクロード美術館が、中央線小淵沢駅から小海線に乗り換えて、最初の駅の甲斐小泉駅前にあることを知ったので、2011年4月19日に1泊で楽しみに出かけた。幸い好天に恵まれ、ウイークデイのため、見学客も少なく、白樺美術館の新しい施設「光の美術館」(自然光を取り入れて鑑賞する設計ー安藤忠雄氏の設計)とルオー・コレクション展をゆっくりと見学できた。
(下の写真はラ・リューシュと呼ばれる貸アトリエ)

白樺美術館からバスで小淵沢駅まで出て、甲斐大泉駅で下車して八ヶ岳ロイヤルホテルに1泊した。
八ヶ岳は私にとって一番懐かしい山である。20代の前半には毎月のように松原湖から登り始め、山小屋に泊まり、翌日は南八ヶ岳の稜線を縦走し小淵沢まで歩いたものである。
ホテルの屋上からは、南に富士山、北に八ヶ岳の展望が開けている。素晴らしい眺めである。
翌日ホテルを出て、1駅離れた甲斐小泉の駅で降りれば、眼の前に平山郁夫シルクロード美術館がある。
小さな美術館であるが、広くシルクロードと呼ばれる地域の仏像類の宝庫であり、多分収納規模としては東京国立博物館のアジア館に次ぐ規模であろう。

平山夫妻が昭和43(1967)年以来、40年以上に亘って収集して来られたシルクロードの美術品を
展示している。
この館が収蔵しているシルクロード・コレクションは、西はローマから東は日本まで、37か国の地域で作られた彫刻、絵画、工芸品など9千点に及ぶそうである。
同館の第1,3展示室がシルクロードの仏像であり、その一部が2011年の「仏教伝来の道」で展示された。

ガンダーラの菩薩交脚菩薩像(2~3世紀)など、日本では作例のない仏像である。
概して、ガンダーラ仏には優品が多いのが特徴であるが、中央アジア、西アジア、イラン等の工芸品や彫刻は正倉院御物に似ているものが多い。

第2展示室は、平山先生の「大シルクロード・シリーズ」や「欧州写生絵巻」等が順次展示される。
第4展示室は貨幣や工芸品類である。


ミュージアム・ショップには、平山先生の著作や、展示会のカタログ類が販売されている。
そこで求めた平山郁夫著「文化財赤十字の旗」には、敦煌莫高窟の保護、アンコール遺跡の保存事業、
文化財の緊急避難、生い立ちと被爆、仏教伝来、薬師寺玄奘三蔵院の障壁画等、先生の画家、文化財保護、
宗教等について書かれ、改めて単なる画家ではなく、文化財保護の対する限りない愛情が感じられる名著で
ある。
今年も、白樺美術館、八ヶ岳、シルクロード美術館の旅を楽しみたい。
平山画伯は、日本を代表する画家であり、かつ世界各国の文化財遺産保護について、個人として多大な貢献をされた方であることは、画伯の著作を通して知っていた。
私は、毎年4月20日頃の清春白樺美術館の桜や美術品、その環境を愛でるために必ず訪ねることにしている。平山郁夫シルクロード美術館が、中央線小淵沢駅から小海線に乗り換えて、最初の駅の甲斐小泉駅前にあることを知ったので、2011年4月19日に1泊で楽しみに出かけた。幸い好天に恵まれ、ウイークデイのため、見学客も少なく、白樺美術館の新しい施設「光の美術館」(自然光を取り入れて鑑賞する設計ー安藤忠雄氏の設計)とルオー・コレクション展をゆっくりと見学できた。
(下の写真はラ・リューシュと呼ばれる貸アトリエ)
白樺美術館からバスで小淵沢駅まで出て、甲斐大泉駅で下車して八ヶ岳ロイヤルホテルに1泊した。
八ヶ岳は私にとって一番懐かしい山である。20代の前半には毎月のように松原湖から登り始め、山小屋に泊まり、翌日は南八ヶ岳の稜線を縦走し小淵沢まで歩いたものである。
ホテルの屋上からは、南に富士山、北に八ヶ岳の展望が開けている。素晴らしい眺めである。
翌日ホテルを出て、1駅離れた甲斐小泉の駅で降りれば、眼の前に平山郁夫シルクロード美術館がある。
小さな美術館であるが、広くシルクロードと呼ばれる地域の仏像類の宝庫であり、多分収納規模としては東京国立博物館のアジア館に次ぐ規模であろう。
平山夫妻が昭和43(1967)年以来、40年以上に亘って収集して来られたシルクロードの美術品を
展示している。
この館が収蔵しているシルクロード・コレクションは、西はローマから東は日本まで、37か国の地域で作られた彫刻、絵画、工芸品など9千点に及ぶそうである。
同館の第1,3展示室がシルクロードの仏像であり、その一部が2011年の「仏教伝来の道」で展示された。
ガンダーラの菩薩交脚菩薩像(2~3世紀)など、日本では作例のない仏像である。
概して、ガンダーラ仏には優品が多いのが特徴であるが、中央アジア、西アジア、イラン等の工芸品や彫刻は正倉院御物に似ているものが多い。
第2展示室は、平山先生の「大シルクロード・シリーズ」や「欧州写生絵巻」等が順次展示される。
第4展示室は貨幣や工芸品類である。
ミュージアム・ショップには、平山先生の著作や、展示会のカタログ類が販売されている。
そこで求めた平山郁夫著「文化財赤十字の旗」には、敦煌莫高窟の保護、アンコール遺跡の保存事業、
文化財の緊急避難、生い立ちと被爆、仏教伝来、薬師寺玄奘三蔵院の障壁画等、先生の画家、文化財保護、
宗教等について書かれ、改めて単なる画家ではなく、文化財保護の対する限りない愛情が感じられる名著で
ある。
今年も、白樺美術館、八ヶ岳、シルクロード美術館の旅を楽しみたい。
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2012年03月13日
無言館は語る
信州上田駅から上田電鉄で丸子駅までの途中に「塩田平」という駅がある。この一帯は信州では数少ない平野で「信州の鎌倉」と呼ばれている。
それは鎌倉幕府の連署(れんしょ)であった北条義政が13世紀終わり頃に、信濃の塩田の地を傘下に収め、以来、三代60年間に亘り塩田の政治を司り、文化の中心となったからである。しかし、元弘3(1233)年新田義貞に攻められて、鎌倉幕府は亡び、塩田北条氏も鎌倉に出陣して亡んだ。この塩田平には八角三重塔(安楽寺・国宝)、前山寺の三重塔(重文)など、鎌倉時代の国宝や重要文化財が沢山ある。

その前山寺の門前に信濃デッサン館という窪島誠一郎氏の私設美術館がある。村山槐多、松本俊介、靉光等夭折した個性派の画家達の作品を集めている。この美術館のオーナーである窪島氏が,NHKから出版された「祈りの画集ー戦没学生の記録」という一冊の画集を見たことから始まった。窪島氏は「どの絵も未熟で未完成で、技術的にも造形的にも今一つピンとくるものでは無かった」と評している。「むしろ、全国の
画学生の遺族宅を訪ね、遺作を撮影して歩いた野見山暁二氏(洋画家)の方に関心を抱いた」と述べている。後に「生き残った画家」と、画学生の遺族を訪ね、遺作集めを始めたのは1995(平成7)年であった。当初は「信濃デッサン館」の一隅にでも展示してみたいと淡い希望」で集めたそうである。
無言館は、この画学生たちの絵を集めて戦没学生慰霊美術館として、コンクリート内放しの平屋建て、120坪ほどの十字架をした小さな美術館で、画学生たち30余名の遺作や遺品、約300点を展示した私設美術館であった。1997(平成9)年に開館して家族、自画像、裸婦等の作品や戦地からの絵葉書、彫刻等が飾られている。完成した美術品ではないが、生きておれば80代の大作家になったかも知れない。
この無言館については、館主の窪島誠一郎氏が「無言館ノウト」を集英社新書で刊行されている。それによれば、野見山氏が東京美術学校卒であるため、まず東京芸術大学の資料室に頼んで戦時中の学籍簿を特別に閲覧させてもらい、全国にちらばる戦没画学生のご遺族宅のリストを作ることから始まったそうである。
戦没学生巡礼記の項目には、多数の戦没した画学生の履歴や、家族、作品の点数が書かれている。そこで、私は奇妙な既視観を覚えた。この人たちの名前はどこかで聞いたことがあるのだ。それは1949(昭和24)年に出版され、ベストセラーとなった「きけわだつみのこえ」(日本戦没学生の手記)に出てくる名前であった。「無言館ノウト」には多数の絵が紹介されているが、その内の一部を載せてみる。

これは、中村万平氏の「霜子(妻の像)」である。東京美術学校の在学中にモデルを務めてくれた霜子と結婚、1942(昭和17)年に出征し、1943(昭和18)年8月に蒙古連合自治区にて戦病死。享年26歳とある。妻霜子氏は、産後の肥立ちが悪く半月ほどして病死した。この「妻の像」はただ一つ生前の愛の証しであった。
次の絵は太田彰氏の「和子の像」である。太田氏は1945(大正10)年2月生まれ。東京美術学校に入学し、1943(昭和17)年に繰り上げ卒業。1943(昭和18)年に入営、1944(昭和19)年に満州牡丹江で行軍中に脚気衝によって倒れ、戦病死。享年23歳であった。

愛する家族や、妻、妹、景色など様々である。
窪島氏によれば、「無言館」開館当初のマスコミ攻勢はすごかったそうである。NHK「おはよう日本」、
テレビ朝日「ニュースステーション」,TBS「NEWS23」、それにつれて、戦没画学生の各地方のテレビ局が画学生と遺族に焦点をあてたニュース番組や特別番組を企画したそうである。
「無言館ノウト」には、美術館を訪れ、様々な手紙が送られてきたそうである。例えば
「昭和18年12月、雨降る神宮を行進し学徒出陣した者の一人です。フィリピンから北支の航空部隊へやられ、幸い一命を落とすことなく終戦を迎え昭和20年10月に復員、こうした先輩諸氏の尊い犠牲のもとに余生をむさぼる幸福を味わっています。ここに多くの若き才能あふれる作品を見るにつけ、ただただ、軍国の時代に青春を失った先輩達の霊よ安かれ、と頭をたれるばかりです。このような貴重な美術館を開設してくださった関係者に心からの敬意と感謝をささげるしだいです。(東京都葛飾区・Y・79歳)
「どの絵もとっても美しかった。青い空、恋人の顔、とってもステキでした。(E・20歳)
こんな手紙もあったそうである。{開館して約1年が過ぎた1998(平成10)年6月末のこと、自閉症で手首を切って自殺をはかったという22歳の女性が、館の近くにあるK外科病院に入院していて、退院の日に母親とともに「無言館」を訪ねてくれた。はじめは不承不承母親についてきたというその娘さんは、何と2時間以上も画学生たちの遺作、遺品の前を離れなかったという。
「ここ3年間、父親とも母親とも口をきこうとしない娘でした。その娘が館を出たあと、お母さん、私も明日から頑張る、といってくれたのです。それがうれしくて、うれしくて」
母親からの手紙には、自分たちの住む上田にできた「無言館」への感謝と自閉症にの娘が画学生たちの絵にふれ明日への希望を見出してくれたことへの歓びがみちみちていた。
そこには画学生を殺りくした戦争の力を上廻る彼らの”絵”の力があったというべきであろう。それは戦争美術館でも平和祈念館でもない慰霊美術館としての「無言館」の真価が発揮されてのことだったともいえるのであろう。
勝手な想像だろうが、すでにこの世にいな戦没画学生たちは、自分たちの絵がこの22歳の女性の、永く閉ざされた心の闇を切り拓いたことに無上の満足をおぼえているのではないだろうか。自分たちの書き残した絵が「反戦」や「平和」の旗印の役割を果たすだけではなく、戦後50余年をへた現代に生きる女性の生きる勇気に加担したことに、文字通り絵描き冥利を感じているだろうか。彼らの絵が、戦争から生まれたものではなく、彼ら自身の生命の底に流れている青春の情熱から生み出された絵だからである。}
無言館は、設立から13年を経て、第二無言館もでき、年間8万人以上の観客を迎えている。これは、単なる戦争記念館ではなく、今に生きる人たちへ語りかける言葉を発するからであろう。
(この原稿は、名古屋大学1956(昭和31)年卒の同窓会ホームページ「望洋会」の原稿に大幅な加筆・訂正を行なったものであります。)
それは鎌倉幕府の連署(れんしょ)であった北条義政が13世紀終わり頃に、信濃の塩田の地を傘下に収め、以来、三代60年間に亘り塩田の政治を司り、文化の中心となったからである。しかし、元弘3(1233)年新田義貞に攻められて、鎌倉幕府は亡び、塩田北条氏も鎌倉に出陣して亡んだ。この塩田平には八角三重塔(安楽寺・国宝)、前山寺の三重塔(重文)など、鎌倉時代の国宝や重要文化財が沢山ある。
その前山寺の門前に信濃デッサン館という窪島誠一郎氏の私設美術館がある。村山槐多、松本俊介、靉光等夭折した個性派の画家達の作品を集めている。この美術館のオーナーである窪島氏が,NHKから出版された「祈りの画集ー戦没学生の記録」という一冊の画集を見たことから始まった。窪島氏は「どの絵も未熟で未完成で、技術的にも造形的にも今一つピンとくるものでは無かった」と評している。「むしろ、全国の
画学生の遺族宅を訪ね、遺作を撮影して歩いた野見山暁二氏(洋画家)の方に関心を抱いた」と述べている。後に「生き残った画家」と、画学生の遺族を訪ね、遺作集めを始めたのは1995(平成7)年であった。当初は「信濃デッサン館」の一隅にでも展示してみたいと淡い希望」で集めたそうである。
無言館は、この画学生たちの絵を集めて戦没学生慰霊美術館として、コンクリート内放しの平屋建て、120坪ほどの十字架をした小さな美術館で、画学生たち30余名の遺作や遺品、約300点を展示した私設美術館であった。1997(平成9)年に開館して家族、自画像、裸婦等の作品や戦地からの絵葉書、彫刻等が飾られている。完成した美術品ではないが、生きておれば80代の大作家になったかも知れない。
この無言館については、館主の窪島誠一郎氏が「無言館ノウト」を集英社新書で刊行されている。それによれば、野見山氏が東京美術学校卒であるため、まず東京芸術大学の資料室に頼んで戦時中の学籍簿を特別に閲覧させてもらい、全国にちらばる戦没画学生のご遺族宅のリストを作ることから始まったそうである。
戦没学生巡礼記の項目には、多数の戦没した画学生の履歴や、家族、作品の点数が書かれている。そこで、私は奇妙な既視観を覚えた。この人たちの名前はどこかで聞いたことがあるのだ。それは1949(昭和24)年に出版され、ベストセラーとなった「きけわだつみのこえ」(日本戦没学生の手記)に出てくる名前であった。「無言館ノウト」には多数の絵が紹介されているが、その内の一部を載せてみる。
これは、中村万平氏の「霜子(妻の像)」である。東京美術学校の在学中にモデルを務めてくれた霜子と結婚、1942(昭和17)年に出征し、1943(昭和18)年8月に蒙古連合自治区にて戦病死。享年26歳とある。妻霜子氏は、産後の肥立ちが悪く半月ほどして病死した。この「妻の像」はただ一つ生前の愛の証しであった。
次の絵は太田彰氏の「和子の像」である。太田氏は1945(大正10)年2月生まれ。東京美術学校に入学し、1943(昭和17)年に繰り上げ卒業。1943(昭和18)年に入営、1944(昭和19)年に満州牡丹江で行軍中に脚気衝によって倒れ、戦病死。享年23歳であった。
愛する家族や、妻、妹、景色など様々である。
窪島氏によれば、「無言館」開館当初のマスコミ攻勢はすごかったそうである。NHK「おはよう日本」、
テレビ朝日「ニュースステーション」,TBS「NEWS23」、それにつれて、戦没画学生の各地方のテレビ局が画学生と遺族に焦点をあてたニュース番組や特別番組を企画したそうである。
「無言館ノウト」には、美術館を訪れ、様々な手紙が送られてきたそうである。例えば
「昭和18年12月、雨降る神宮を行進し学徒出陣した者の一人です。フィリピンから北支の航空部隊へやられ、幸い一命を落とすことなく終戦を迎え昭和20年10月に復員、こうした先輩諸氏の尊い犠牲のもとに余生をむさぼる幸福を味わっています。ここに多くの若き才能あふれる作品を見るにつけ、ただただ、軍国の時代に青春を失った先輩達の霊よ安かれ、と頭をたれるばかりです。このような貴重な美術館を開設してくださった関係者に心からの敬意と感謝をささげるしだいです。(東京都葛飾区・Y・79歳)
「どの絵もとっても美しかった。青い空、恋人の顔、とってもステキでした。(E・20歳)
こんな手紙もあったそうである。{開館して約1年が過ぎた1998(平成10)年6月末のこと、自閉症で手首を切って自殺をはかったという22歳の女性が、館の近くにあるK外科病院に入院していて、退院の日に母親とともに「無言館」を訪ねてくれた。はじめは不承不承母親についてきたというその娘さんは、何と2時間以上も画学生たちの遺作、遺品の前を離れなかったという。
「ここ3年間、父親とも母親とも口をきこうとしない娘でした。その娘が館を出たあと、お母さん、私も明日から頑張る、といってくれたのです。それがうれしくて、うれしくて」
母親からの手紙には、自分たちの住む上田にできた「無言館」への感謝と自閉症にの娘が画学生たちの絵にふれ明日への希望を見出してくれたことへの歓びがみちみちていた。
そこには画学生を殺りくした戦争の力を上廻る彼らの”絵”の力があったというべきであろう。それは戦争美術館でも平和祈念館でもない慰霊美術館としての「無言館」の真価が発揮されてのことだったともいえるのであろう。
勝手な想像だろうが、すでにこの世にいな戦没画学生たちは、自分たちの絵がこの22歳の女性の、永く閉ざされた心の闇を切り拓いたことに無上の満足をおぼえているのではないだろうか。自分たちの書き残した絵が「反戦」や「平和」の旗印の役割を果たすだけではなく、戦後50余年をへた現代に生きる女性の生きる勇気に加担したことに、文字通り絵描き冥利を感じているだろうか。彼らの絵が、戦争から生まれたものではなく、彼ら自身の生命の底に流れている青春の情熱から生み出された絵だからである。}
無言館は、設立から13年を経て、第二無言館もでき、年間8万人以上の観客を迎えている。これは、単なる戦争記念館ではなく、今に生きる人たちへ語りかける言葉を発するからであろう。
(この原稿は、名古屋大学1956(昭和31)年卒の同窓会ホームページ「望洋会」の原稿に大幅な加筆・訂正を行なったものであります。)
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2012年02月13日
北京故宮博物院200選を観る
私は、1月中に2回見たけれども、200点は多すぎる。150点位が一番見易い点数である。今回は特別展であって、展示規模も大きいが、観客も多かった。初回は10時位に着いたが、既に入館するまでに1時間の列ができ、「清明上河図」は、更に3時間待ちであった。
第1部は「故宮博物院の至宝ー皇帝たちの名品」で、北宋、南宋、元時代の絵画、書であった。
中でも「清明上河図」は、新聞テレビの報道のために、大変な人気であった。この図は清明上河図の橋の
部分であり、しばしば目にする絵画である。北宋の都、開封(かいほう)の庶民の日常を描いた図である。
中国史上における宋時代は科挙による士太夫官僚が高い文化を生み出し、一方で庶民が豊かな都市生活を謳歌した時代でもあった。北宋後期の都市の様子を見事に描き出した絵画史上の傑作である。
しかし、私見として圧倒的に面白かったのは第2部の「新潮宮廷文化の精粋ー多文化のなかの共生ー」であった。清朝は、ご承知の通り、満州族の王朝で、僅か2%の人口で当時世界の人口の三分の一に当たる大清国を異民族が支配し、中でも乾隆帝(1711〜1799年)の清朝第六代の皇帝で、大清帝国をが安定して上昇期に入り、最も幸運な時期に即位した皇帝であった。
左の絵画は「乾隆帝是一是二図軸」(これいちこれに)と呼ばれる絵画である。
満州族の皇帝が、漢民族の衣装を着け、テーブルの上には古代の緑青をふいた青銅器や玉器、宋時代の白磁、明時代の青花と言った歴代王朝の遺物が並んでいる。清帝国の支配者が、漢民族の文化を愛し、衣装を着けているところに、大帝国を武力でも文化面でも、精神面でも愛し、共生する有様を示した絵である。
文句なく当時の世界一の文化国、武力帝国、文化帝国、技術国であった大清国の帝王の姿を遺憾なく発揮した一枚の絵である。即ち、清朝は世界一の先進国であり、アジアの指導者であった。その清朝の治める版図は、概ね現在の中華人民共和国が支配する版図であった。
しかも、乾隆帝は、力づくで支配するのでは無く、チベット仏教を崇拝し、「乾隆帝文殊菩薩画像」として描かれている。
その乾隆帝の治世が1711年から1799年の時期であったことと大きく関係している。
即ち、18世紀はアジアの時代であり、ヨーロッパの時代ではなかったのだ。
右図は元時代の「青花龍文八角瓶」である。
イギリスの産業革命の歴史は次の通りである。
1733年 フライ シャトル ジョン ケイ
1735年 ローラー防績機 ワイアット
1735年 コークス精錬法 アブラハム ダービー
1765年 蒸気機関(分離凝結機) ワット
1776年 「国富論」 アダム スミス
(マニファクチャー時代の資本主義)
要するに、産業革命がヨーロッパに起こり、イギリスが世界の工場として誇った時代は19世紀である。
18世紀はアジアの時代であり、その盟主は文句なく、大清国であったのである。
最も感銘を受けたのは、「康熙帝南巡図管第十一巻」と「第十二巻」である。雄大な万里の長江で、川水
の激しく流れるなかを、康熙帝の乗る龍船は流れに沿って下って行く。平安な中国の皇帝の姿は、現在の中華民国の指導者には見られない、穏やかで、豊かな姿である。
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2011年12月29日
会津八一の詩と共に大和古寺を歩く
なぜ大和(奈良)か
私たちは昭和二十七年(1952)四月に、名古屋大学経済学部に入学した。思えば日本がサンフランシスコ講和条約を調印、日米安保条約を締結したのが、その前年の昭和二十六年(1951)であり、翌二十七年(1952)は日本の講和独立と国際社会復帰への道が開けた年であった。しかし、講和は全面講和ではなく、米英等親アメリカの国々(四八国)との講和であり、その後中国との講和を結ぶために二十年近い歳月を要し、未だにソビエット(現ロシア)、北朝鮮とは講和条約を結んでいない。
また、日米安保条約は、その改定の都度大きな政治問題となり、特に昭和三十五年(1960)の安保改定に際しては、国会へ学生や労働者が請願デモで押しかけ、まるで革命前夜を思わせるような光景であった。
一昨年(2009)八月民主党が政権を取り、そのマニフェストの柱の一つは「緊密で対等な日米関係をつくること、日米地位協定の改定を提起する」であった。将に、六十年を掛けても、日米安保条約は最大の政治課題であり、激動の時代に入学したものである。
昭和二十年(1945)八月のアメリカ占領軍による統治の時代から、日本は圧倒的な物量の前に”アメリカ漬け”になったのは止むを得ない事態であったろう。しかし、アメリカ文化がすべてという時代風潮に対して私には反発の気持ちも強かった。
あえて、昭和二十七年(1952)から大和の地を訪ね、そこに華開いた古代の日本文化を吸収しようとした私の中には、言ってみれば日本的教養主義への憧れとの言うべき気持ちが強かったのではないかと思う。
爾来、六十年近い歳月が経つが、未だに”大和は国のまほろば”という思いが強く、今でも機会があれば奈良・京都の寺を訪ねたり、古寺の展覧会が開催されれば、必ず拝観に行く昨今である。
大学時代の大和への旅に同行したのは、高校時代の同級生であったK君(名大法学部)であった。青春の大切な時代にK君と二人で奈良のお寺を廻った思い出は大変貴重な思い出である。
なお、大和古寺を散策するにあたり、手元にあった図書は和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、竹山道雄「古寺遍歴ー奈良」、會津八一「鹿銘集」、日本書記であり、適宜引用する。
(この文章は、「幾山河」・名古屋大学経済学部1956年卒業生・喜寿記念文集を大幅に改定・補充したものです)
私たちは昭和二十七年(1952)四月に、名古屋大学経済学部に入学した。思えば日本がサンフランシスコ講和条約を調印、日米安保条約を締結したのが、その前年の昭和二十六年(1951)であり、翌二十七年(1952)は日本の講和独立と国際社会復帰への道が開けた年であった。しかし、講和は全面講和ではなく、米英等親アメリカの国々(四八国)との講和であり、その後中国との講和を結ぶために二十年近い歳月を要し、未だにソビエット(現ロシア)、北朝鮮とは講和条約を結んでいない。
また、日米安保条約は、その改定の都度大きな政治問題となり、特に昭和三十五年(1960)の安保改定に際しては、国会へ学生や労働者が請願デモで押しかけ、まるで革命前夜を思わせるような光景であった。
一昨年(2009)八月民主党が政権を取り、そのマニフェストの柱の一つは「緊密で対等な日米関係をつくること、日米地位協定の改定を提起する」であった。将に、六十年を掛けても、日米安保条約は最大の政治課題であり、激動の時代に入学したものである。
昭和二十年(1945)八月のアメリカ占領軍による統治の時代から、日本は圧倒的な物量の前に”アメリカ漬け”になったのは止むを得ない事態であったろう。しかし、アメリカ文化がすべてという時代風潮に対して私には反発の気持ちも強かった。
あえて、昭和二十七年(1952)から大和の地を訪ね、そこに華開いた古代の日本文化を吸収しようとした私の中には、言ってみれば日本的教養主義への憧れとの言うべき気持ちが強かったのではないかと思う。
爾来、六十年近い歳月が経つが、未だに”大和は国のまほろば”という思いが強く、今でも機会があれば奈良・京都の寺を訪ねたり、古寺の展覧会が開催されれば、必ず拝観に行く昨今である。
大学時代の大和への旅に同行したのは、高校時代の同級生であったK君(名大法学部)であった。青春の大切な時代にK君と二人で奈良のお寺を廻った思い出は大変貴重な思い出である。
なお、大和古寺を散策するにあたり、手元にあった図書は和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、竹山道雄「古寺遍歴ー奈良」、會津八一「鹿銘集」、日本書記であり、適宜引用する。
(この文章は、「幾山河」・名古屋大学経済学部1956年卒業生・喜寿記念文集を大幅に改定・補充したものです)
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飛鳥地方・飛鳥寺
昭和二十七年の五月,K君と二人で飛鳥地方を尋ねた記憶は新鮮である。名古屋発の近鉄急行に乗り、中川駅乗り換え、大和八木駅乗換え、橿原神宮前駅下車、そこからは徒歩であった。今ならばバスがあるだろうが、当時はバスの数も少なく、まだ見ぬ飛鳥地方を早く見たいという気持ちで一杯であった。
駅前から橘寺、岡寺、不思議な猿石、亀石、酒船石、鬼の雪隠と歩いて、石舞台で持参の弁当を食べた。
K君が持参したカメラで昼飯を食べている写真が今も残っている。石舞台は蘇我馬子の墓と伝えられているが、当時は区画もなく、入場料も不要であった。
その後、順序は覚えていないが、河原寺、弘福寺、安居院(飛鳥寺)と廻った。
よ を そしる まづしき そう の まもりこ こし
この くさむら の しろき いしずえ (会津八一「鹿銘集」)
飛鳥・飛鳥寺はその時が最初であるが、その後何回も訪れ、飛鳥寺にはお参りをしているが、最初の拝観が一番印象に残っている。
posted by オフの日 at 14:57| Comment(0)
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法隆寺・中宮寺
用明天皇元年(598)、天皇は造寺と薬師像建立を発願したと金銅薬師如来像の光背銘に記されている。また、日本書紀によれば推古九年(601)厩戸尾大兄尾皇子は、斑鳩宮に移されている。推古十五年
(607)法隆寺建立とされている(薬師寺光背銘)。即ち七世紀初頭には、法隆寺は完成したと思われていた。しかし、天智九年(670)、日本書記は「法隆寺に災あり。一屋余すなし」と伝えている。明治以来、法隆寺の再建・非再建論争が続いたが、昭和十四年(1939)から石田茂作らによる若草伽藍跡発掘調査によって再建論が確定した。従って、現在の法隆寺は再建された斑鳩宮であり、再建後の法隆寺の面影を残すのは金堂、五重塔、回廊と見られている。法隆寺再建の時期については日本書記は語っていないが、専門家の間では八世紀初頭には、飛鳥時代の建築様式を取り入れて金堂や五重塔が再建されたと見られている。しかし、世界最古の木造建築物であり、世界遺産第一号であることに変わりはない。
飛鳥時代の代表作は金堂の釈迦三尊であり、所謂北魏様式である。この系列につながる仏像は、金堂の薬師如来、夢殿の救世観音菩薩像等を竹山道雄は揚げる。これとやや系列を異にする様式として、百済観音像を代表作として金堂四天王、中宮寺弥勒菩薩像などを揚げる。(但し、百済観音は朝鮮渡来とする説がある)
いずれにせよ飛鳥仏はアルカイックスマイルを浮かべ、森厳な相をしており、時代の古さを感ずることができる。
おしひらく おもき とびら の あひだより はや みえ
たまう みほとけ の かほ (会津八一「鹿銘集」)
法隆寺の隣に、中宮寺がある。中宮寺は創建の年代は不明であるが、聖徳太子建立の七寺の中に数えられる由緒あるお寺である。太子の母親である穴穂部間人皇后のすまいを、皇后の死後に寺にした。皇后、皇太后を中宮というので中宮寺と呼ばれている。
戦後間もない時期の建物は江戸時代の建築であるが、尼寺らしく清楚な風格を持つ。門をくぐると松と青砂のさわやかな庭があり、庭先から本堂へあがる。正面に安置されているのが有名な本尊の釈迦如来三尊の作風とはちがい、おだやかな人間らしい仏像である。白鳳仏に近く、製作の年代も白鳳期に入ってからとする説もあるが、寺伝に従い飛鳥仏の入れたい。お寺では如意輪観音とするが弥勒とする説もある。飛鳥、白鳳を通して一番美しい仏像である。半跏像とは、右足を左足の上に組む仏像であり、特に京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と双璧をなすが、私は中宮寺を一番にあげたい。色が黒く光るのは、木造仏に黒漆を塗ったためである。
和辻哲郎は「古寺巡礼」の中で「私の乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のない独特のものではないかと思われる」と絶賛している。
みほとけ の あご と ひじと に あまでら の
あさ の ひかり の ともしき ろ かも (会津八一「鹿銘集」)
中宮寺で見逃せないのは天寿国曼荼羅刺繍張である。昭和二十年代には、国宝の実物が展示されていた。
(現在は痛みが激しいためレプリカが展示)上宮聖徳法王帝説(刺繍の銘文が記録されている)によれば、
太子がなくなったのち、后の橘大女郎が太子の死をいたみ、死後の太子が往生したはずの天寿国の図を作って太子をしのんだとされている。それ程に太子の信仰生活がなみなみならぬものであったことがわかる。
posted by オフの日 at 11:06| Comment(0)
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2011年12月28日
東 大 寺
昭和二十八年三月十二日にK君と奈良に泊まり、東大寺を巡ったのも思い出深い旅であった。その頃、旅館に泊まるのは容易ではなかった。戦後の食糧不足は終わりつつあったが、東大寺近くの吉田家という旅館は多くの古寺巡礼を楽しむ学生や先生のための旅館であった。当時の宿泊料は米二合持参、二食付で五百円であった。古い旅館であり、今はない。奈良ホテルに泊まる身分ではなし、吉田家が一番適当な旅館であった。因みに、「古寺巡礼」の和辻哲郎は奈良ホテルが常宿であったようだ。
二月堂、三月堂、戒壇院と廻った。日にちまで明確に覚えているのは、その旅が二月堂のお水取りを見る目的であったからである。
まず、三月堂にお参りした。三月堂の本堂は創建当時のものである。因みに、東大寺の建物の中で創建時のまま残っているのは、この三月堂、転害門、正倉院の校倉のみである。
さて、東大寺は平城京の東の端(外京)に方八町を占め、天平十五年(743)の大仏造顕の詔で創建され、その規模は他に匹敵するものがない。聖武天皇の詔で創建された事情からも、鎮護国家の寺であった。
大仏殿の東に建つ三月堂の仏像は天平仏の中でも特に美しい仏像が多い。三月堂は天平十九年(747)から天平二十年(748)にかけて建立された堂で、不空絹牽檡観音を本尊とする。この堂は法華堂とも呼ばれ、法華会が三月に行われるので、三月堂の名称で親しまれている。この堂内には十四体の天平仏が立っている。この仏像群を大きく二つに区分できる。一つは、不空絹索観音をはじめ、梵天、帝釈天、四天王、仁王の像で、いずれも脱乾漆造で、高さは350センチを超す巨像であり、本来この堂と共に制作された仏像である。もう一つは日光、月光、吉祥天、弁財天、執金剛神の五体であり、本来は東大寺内の他の堂に伝来したが、いつの時代にか、三月堂に移し替えられた客仏である。
いずれの仏像も天平仏の代表作であるが、中でも日光・月光菩薩が美しい。亀井勝一郎は「この両菩薩の合掌の美しさもまた無比であろう。それは、指先をふれるだけで、実に柔かく、ふくらみを帯びて合掌している。」と賛美している。
次に大仏殿の西に建つ戒壇院を訪ねた。戒壇院は二度の兵火により炎上を繰り返したが、現在の建物は江戸中期の建物である。内部の戒壇院の四隅には天平の四天王が祀られている。中でも広目天が美しい。亀井勝一郎も「四天王の美は、戒壇院を頂点とする」と述べている。
びるばくしゃ まゆね よせたる まなざし を まなこ に
み つつ あき の の を ゆく(会津八一「鹿鳴集」)
三月十二日のお水取りの夜に、「過去帳」が読まれることも忘れてはならない。聖武天皇、光明皇后から現代に至るまでの東大寺に関係のあった人々の名前を、歌うように読み上げるのである。鎌倉時代中程で
「青衣の女人」と、陰にこもった節をつけて読む。後に井上靖が「青衣の女人」を著している。翌三月十三日には東大寺の大仏殿を参拝して、待望の西の京に向かった。
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薬 師 寺
近鉄西の京駅を下車すれば、薬師寺は眼の前である。薬師寺で創建当時の建築物は東塔のみである。元来、西塔と二棟様式であったが、西塔は早く消失した。
薬師寺の縁起によれば、天武九(680)年に、その皇后、後の持統天皇の病気平癒の祈願のため、飛鳥の地において造寺の発願をされたことによる。実際に工事がはじめられたのは、天武天皇が崩ぜられ、持統天皇が即位された後であり、文武二年(698)に飛鳥藤原京で落成した。しかし、わずか十二年後に都は平城京に遷都し、その薬師寺を養老二年(718)飛鳥藤原京より現在の地に移転され、天平二年(730)に東塔が建立されたと伝えている。
すいえん の あまつ おとめ が ころも で の
ひま に も すめる あき の そら かな (会津八一「鹿鳴集」)
西の京から徒歩で入ると、お寺の裏口から入ることになり、まず講堂を眼にする。しかし、本来は南側に建つ南門から入り、東西二塔を拝して金堂に入るのが元来のお寺の参り方である。大和で二塔を擁するお寺
(二塔一金堂)は薬師寺が創まりである。飛鳥寺は、五重塔、三金堂(一塔三金堂)様式であった。法隆寺は中門を入ると右側に金堂、左側に五重塔を擁する一塔一金堂様式であった。
要するにお寺における塔の位置付けが大きく変化したのである。塔というものは、基本的にはストューパ
である。ストューパとは仏舎利(釈迦の遺骨)を収めた舎利塔である。インドでは仏像が無い時代はまずストューパが造られ礼拝された。その後、金堂(本尊を祀る)の地位が高まり、金堂が薬師寺の中心的
建物となったのである。
薬師寺の金堂像は中央が薬師如来であり、脇侍(脇侍)として日光菩薩、月光菩薩が左右に安置されている。この三尊は各々三メートルを超す巨像であり、その黒びかりの美しさは喩えようがない。和辻哲郎は
「東洋美術の最高峰」「とろけるような美しさ」「日本という国が明確に成立した時代ーすなわち美術史上の白鳳時代を理解する鍵」とまで絶賛している。
金堂薬師如来像の台座は素晴らしい模様が彫られている。葡萄唐草文様、南方土人風の蛮人たちが四方に浮彫されている。また下がまちには青竜、南には朱雀、西には白虎、北には玄武といったペルシャ様式が取り入れられている。その文様はギリシャ、中近東、シルクロード、唐の国際性を感じさせるものであった。
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唐 招 提 寺
薬師寺より唐招提寺への道は美しい。三月とは言え、もう春であった。お水取りの次の日であったが、日中は暖かい。この道は奈良周辺では私が一番好きな道である。土塀が崩れているが、飛鳥地方ほど廃墟ではなく、むしろ戦後間もない日本が貧しかった時代を象徴する道であり、この付近を散策するのは今でも楽しい。
唐招提寺の前に立つと、朱塗りの南大門をくぐる前に、息をのむ思いがする。門を額縁にして、金堂と八本の円柱が美しい。この円柱はギリシャ神殿のエンタシスに比べられる。天平期には数多くの寺が建立された、諸国に国分寺、国分尼寺が造営された。しかし、天平時代の金堂を今に残すのは唐招提寺のみである。
井上靖が「天平の甍」を著したことでも有名である。
おほてらの まろき はしらの つきかげを つち にふみ
つつ もの を こそ おもえ (会津八一「鹿鳴集」)
唐招提寺は鑑真のお寺である。鑑真は日本への渡航を果たすため五度も失敗し、ついに薩摩に着いたのは天平勝宝六(754)年であった。六度目の挑戦で、しかも失明した。その目的は授戒を正しく伝えるためであり、東大寺に戒壇院(戒壇院の名称で登場している)、聖武太政天皇、孝謙天皇をはじめ四百人以上の人に授戒した。鑑真和上は天平宝宇三(759)年に現在の土地を与えられ、唐招提寺を建立した。最初にお堂は講堂であった。講堂は学問をするお堂であり、鑑真和上生存中に建てられたのは講堂のみであった。
金堂は鑑真和上示寂後の宝亀年間(770~780年)と推定されている。
金堂は、金網が張られ、中には入れない。金堂内には盧舎那仏、千手観音菩薩、薬師如来立像の巨像が並ぶ。その他には梵天、帝釈天および四天王の九体の仏像(すべて国宝)は唐招提寺様式と呼ばれ、鑑真和上と同行し唐から渡来した仏師たちが建立したのではなかと言われているほど、天平仏の中で異色である。
講堂に入る時に、堂のお守りをする老婆が「それ、天平の音がする」と、お堂の扉をギーと開けてくれたのは今でも鮮明に記憶に残っている。K君と天平婆さんと呼んで懐かしいだものである。講堂内には唐招提寺勅額、十一面観音立像、薬師如来立像、如来型立像(トルソー)等、現在の新法蔵に安置されている仏像が並んでいた。(いずれも重要文化財)金堂よりは、講堂の方が身近に拝されて、記憶に残っている。
鑑真和上を語るためには「鑑真和上像」を祀る御影堂を述べねばならない。しかし、鑑真和上像は六月六日の忌日にしか開扉されない。その時は残念ながら拝することはできなかった。昭和44(1969)年に私は神戸に転勤し、待望の鑑真和上の忌日(前後1週間は開扉)に家族と共にお参りした。脱活乾漆像であり、日本の彫刻像の最高傑作であり、天平の色彩が残っていた。(すべて昭和二十年代の日本美術の定説に従ったが、現在では異説が多い。特に梅原猛の「隠された十字架」新潮文庫に異説が詳しい。)
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2011年02月11日
興福寺ー廃仏稀釈の嵐
昭和28年の新緑の頃,K君(法学部)と連れ立って興福寺を訪ねたのも記憶に残る旅であった。
近鉄奈良駅を降りて、まず奈良公園を目指した。ひときわ目を引くのが興福寺の五重塔である。奈良の町は東が高くなっているので、どこからでも塔は見える。興福寺は当時の政界の実力者であった藤原氏の氏寺として建立され、都が京に移っても繁栄したお寺であった。
しかし、昭和28年頃には、門も塀もない、荒れ果てた寺であった。記憶に残る建物は五重塔、東金堂、中金堂、三重塔、南円堂、北円堂位いであった。とに角、中世に至るまで絶対的権威を持っていた興福寺は、度重なる火災や、明治維新の廃仏毀釈のため、見る影もない程荒れていた。
秋風や 囲いもなしに 興福寺 子規
拝観ができたのは東金堂と中金堂のみであった。東金堂の拝観で驚いたのは、白鳳時代の山田寺の仏頭である。これは大化改新(645年)の時に中大兄皇子(後の天智天皇)側についた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまる)が創建した山田寺の本尊である。
この像は石川麻呂の追福するために作られた本尊であり、白鳳仏を代表する傑作である。私が一番好きな仏像の一つである。本来は丈六(象高1丈六尺=約4.8メートル)の仏塔頭である。文治3(1187年)に山田寺から奪い、再興された東金堂の本尊に祀られたものである。まことに数奇な運命をたどった仏像である。500年以上も本尊の台座の中に収められていた。昭和12(1937年)の東金堂解体修理の際に発見され、大きな話題となった。
東金堂は、神亀3(726年)、聖武天皇が、叔母にあたる元正太政天皇の病気平癒を祈って建立したお堂である。興福寺には3つの金堂があり、東にある金堂なので、東金堂と呼ばれる。現在の建物は応永22(1415年)の再興であるが、国宝に指定されている。
東金堂の本尊は薬師如来坐像、両脇侍は日光・月光菩薩である。(いずれも重文)
本尊を取り巻く維摩居士像、文殊菩薩像、四天王像は鎌倉時代の国宝である。
興福寺は天平時代の名品と鎌倉時代の名品に恵まれた、日本一国宝が多いお寺である。
しかし、明治の初年に、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、興福寺も衰退した。この五重塔が」250円で売り出され、あわや焼いて金物だけを集める計画であったが、火災の危険のため中止されたそうである。
興福寺は、稀に見る天平仏と鎌倉仏の宝庫であったが、昭和28年頃には、八部衆(阿修羅仏像等)や、十大弟子立像などの名品は、奈良国立博物館に委託展示されていた。
だから、今から見ると「荒れ果てた」とか「山田寺仏頭」しか記憶に残らないのは、止むを得ないことであった。
しかし、昭和28年頃にも、北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(重文)と、建築物で国宝4件、重要文化財2件の堂塔があり、それなりに立派なお寺であった。
會津八一は、次の詩を残している。
興福寺をおもふ
はる きぬ と いま も もろびと ゆき かへり
ほとけ の には に はな さく らしも
会津八一は「自注鹿鳴集」に次ぎのように記している。
「明治に入りては諸制度一変のために全く衰弱に陥れり。その五重塔と東金堂が、今も奈良市の景観の中心を成せるには、真に多とすべきでも、その建立は室町時代を遡るものにあらず。これより古きものは、北円堂と三重塔とがあれど、これ等もまた、鎌倉時代を上げるものにあらざるのみにあらず。観光者にしてその存在に注意する者も少なし」
「そもそも天平時代に於けるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、須らく先ず「続日本記」と「万葉集」とを読み、併せて「興福寺流記」または「諸寺縁起集」中のこの寺の条を読むべし。まことに咲く花の匂うが如きものありしを知るべし」
(明治41年より大正3年に至る)古い本であるが、興福寺の衰退を悲しんでいる。
興福寺の衰退を嘆き、「見る影もないほど荒れ果てた寺」と感じた19歳の私の感性には鋭いものがあったと思う。
近鉄奈良駅を降りて、まず奈良公園を目指した。ひときわ目を引くのが興福寺の五重塔である。奈良の町は東が高くなっているので、どこからでも塔は見える。興福寺は当時の政界の実力者であった藤原氏の氏寺として建立され、都が京に移っても繁栄したお寺であった。
しかし、昭和28年頃には、門も塀もない、荒れ果てた寺であった。記憶に残る建物は五重塔、東金堂、中金堂、三重塔、南円堂、北円堂位いであった。とに角、中世に至るまで絶対的権威を持っていた興福寺は、度重なる火災や、明治維新の廃仏毀釈のため、見る影もない程荒れていた。
秋風や 囲いもなしに 興福寺 子規
拝観ができたのは東金堂と中金堂のみであった。東金堂の拝観で驚いたのは、白鳳時代の山田寺の仏頭である。これは大化改新(645年)の時に中大兄皇子(後の天智天皇)側についた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまる)が創建した山田寺の本尊である。
東金堂の本尊は薬師如来坐像、両脇侍は日光・月光菩薩である。(いずれも重文)
本尊を取り巻く維摩居士像、文殊菩薩像、四天王像は鎌倉時代の国宝である。
興福寺は天平時代の名品と鎌倉時代の名品に恵まれた、日本一国宝が多いお寺である。
興福寺は、稀に見る天平仏と鎌倉仏の宝庫であったが、昭和28年頃には、八部衆(阿修羅仏像等)や、十大弟子立像などの名品は、奈良国立博物館に委託展示されていた。
だから、今から見ると「荒れ果てた」とか「山田寺仏頭」しか記憶に残らないのは、止むを得ないことであった。
しかし、昭和28年頃にも、北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(重文)と、建築物で国宝4件、重要文化財2件の堂塔があり、それなりに立派なお寺であった。
會津八一は、次の詩を残している。
興福寺をおもふ
はる きぬ と いま も もろびと ゆき かへり
ほとけ の には に はな さく らしも
会津八一は「自注鹿鳴集」に次ぎのように記している。
「明治に入りては諸制度一変のために全く衰弱に陥れり。その五重塔と東金堂が、今も奈良市の景観の中心を成せるには、真に多とすべきでも、その建立は室町時代を遡るものにあらず。これより古きものは、北円堂と三重塔とがあれど、これ等もまた、鎌倉時代を上げるものにあらざるのみにあらず。観光者にしてその存在に注意する者も少なし」
「そもそも天平時代に於けるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、須らく先ず「続日本記」と「万葉集」とを読み、併せて「興福寺流記」または「諸寺縁起集」中のこの寺の条を読むべし。まことに咲く花の匂うが如きものありしを知るべし」
(明治41年より大正3年に至る)古い本であるが、興福寺の衰退を悲しんでいる。
興福寺の衰退を嘆き、「見る影もないほど荒れ果てた寺」と感じた19歳の私の感性には鋭いものがあったと思う。
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2011年02月10日
新薬師寺ー十二神将の寺
昭和28年の新緑の頃,K君と二人で興福寺を廻った後、奈良市内を歩いて新薬師寺まで辿りついたのも、楽しい記憶である。
新薬師寺まで歩くのは結構時間が掛かった。今ならばバスで行くことになろうが、交通事情も不便な時代であり、奈良市内を南から北まで歩き回った思い出は貴重である。新薬師寺の当たりは、高畠地区と呼ばれ
志賀直哉旧宅や白毫寺がある。
新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願のため、天平9年(747)勅願により光明皇后によって建立されたと伝えれている。(お寺の縁起より)
新薬師寺の「新」は新しいではなく「あらたかな」薬師寺という意味だそうである。天平時代には東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍が甍を並べてお寺であったそうである。
現在は本堂(奈良時代、国宝)を残すのみで、この金堂も創建当時は食堂であったと考えられている。
天平時代の食堂を改めた本堂内には堂々たる薬師如来像(平安時代、国宝)が安置されている。眼病平癒を祈ったせいか、眼が大きいいのが特徴である。その肩から胸に流れる線は肉感的感覚を覚える。堂々たる体躯、正に密教精神の具現であろう。古来から眼病耳病の仏として霊験あらたかであるそうだ。

本堂の円形土檀上には、本尊を囲んで安置されている塑像十二神将像(天平時代、国宝)が美しい。十二神将像は多いが、新薬師寺をもって最高の傑作と思う。
あるいは剣を持ち、あるいは矢を持って須弥壇上に囲繞する十二神将像は、わが国最古、最大の神将である。
中でも迷企羅大将(めきらたいしょう)(寺伝では伐折羅大将となっている)は、最高傑作であり、高校の日本史の教科書にも採用されている。
十二神将は、薬師如来を護衛する十二人の大将である。

子丑寅卯・・・・十二支の方向に向かってそれぞれ責任を負わされている。いずれも武装して武器を持つ。儀軌(ぎき)によれば各自の持ち物について制約があるが、必ずしも約束通りの持ち物ではない。
後世は、十二神将の頭部に十二支像を付けるものが多くなった。一種の日本化であろう。
このお寺には「香薬師」(こうやくし)と呼ばれる美しい白鳳仏があったが、盗難にあって未だに出てこない。
会津八一は、次の詩を残している。
新薬師寺の金堂にて
たびびと に ひらく みどう の しとみ より
めきら が たち に あさひ さしたり
「自銘鹿鳴集」には、次の文章を残している。
「今の金堂にて、本尊薬師如来を囲繞せる十二神将は、本尊より古き様式を持つのみならず、廃滅せる岩淵寺より移入せりという伝説あり。しかるにこの寺の別堂に近頃まで安置せる香薬師の立像は、その様式、これらの神将より更に古し。いずれも本末を顛倒せるものの如し。またこの寺の最初の十二神将は、何かの時か興福寺の宗徒のために奪い去られて、その寺の東金堂の壇上に陳列されておりしことは、保延6年(1140)の{七大寺巡礼私記}に記しあれども、かの治承4年(1180)の罹災により堂とともに全滅して、今またみるべからず。諸仏の運命も、その果敢なきこと人間界に似たりというべきなり。」
この会津八一の説は、一番珍しい意見であり、大いに参考になった。
新薬師寺まで歩くのは結構時間が掛かった。今ならばバスで行くことになろうが、交通事情も不便な時代であり、奈良市内を南から北まで歩き回った思い出は貴重である。新薬師寺の当たりは、高畠地区と呼ばれ
志賀直哉旧宅や白毫寺がある。
新薬師寺の「新」は新しいではなく「あらたかな」薬師寺という意味だそうである。天平時代には東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍が甍を並べてお寺であったそうである。
現在は本堂(奈良時代、国宝)を残すのみで、この金堂も創建当時は食堂であったと考えられている。
天平時代の食堂を改めた本堂内には堂々たる薬師如来像(平安時代、国宝)が安置されている。眼病平癒を祈ったせいか、眼が大きいいのが特徴である。その肩から胸に流れる線は肉感的感覚を覚える。堂々たる体躯、正に密教精神の具現であろう。古来から眼病耳病の仏として霊験あらたかであるそうだ。
本堂の円形土檀上には、本尊を囲んで安置されている塑像十二神将像(天平時代、国宝)が美しい。十二神将像は多いが、新薬師寺をもって最高の傑作と思う。
あるいは剣を持ち、あるいは矢を持って須弥壇上に囲繞する十二神将像は、わが国最古、最大の神将である。
中でも迷企羅大将(めきらたいしょう)(寺伝では伐折羅大将となっている)は、最高傑作であり、高校の日本史の教科書にも採用されている。
十二神将は、薬師如来を護衛する十二人の大将である。
子丑寅卯・・・・十二支の方向に向かってそれぞれ責任を負わされている。いずれも武装して武器を持つ。儀軌(ぎき)によれば各自の持ち物について制約があるが、必ずしも約束通りの持ち物ではない。
後世は、十二神将の頭部に十二支像を付けるものが多くなった。一種の日本化であろう。
このお寺には「香薬師」(こうやくし)と呼ばれる美しい白鳳仏があったが、盗難にあって未だに出てこない。
会津八一は、次の詩を残している。
新薬師寺の金堂にて
たびびと に ひらく みどう の しとみ より
めきら が たち に あさひ さしたり
「自銘鹿鳴集」には、次の文章を残している。
「今の金堂にて、本尊薬師如来を囲繞せる十二神将は、本尊より古き様式を持つのみならず、廃滅せる岩淵寺より移入せりという伝説あり。しかるにこの寺の別堂に近頃まで安置せる香薬師の立像は、その様式、これらの神将より更に古し。いずれも本末を顛倒せるものの如し。またこの寺の最初の十二神将は、何かの時か興福寺の宗徒のために奪い去られて、その寺の東金堂の壇上に陳列されておりしことは、保延6年(1140)の{七大寺巡礼私記}に記しあれども、かの治承4年(1180)の罹災により堂とともに全滅して、今またみるべからず。諸仏の運命も、その果敢なきこと人間界に似たりというべきなり。」
この会津八一の説は、一番珍しい意見であり、大いに参考になった。
posted by オフの日 at 12:49| Comment(0)
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